2017年07月23日

鎌倉円覚寺の7月はどうでしょうか? 2017.7

7月も後半、「円覚寺」の様子を見てみました。

瑞鹿山円覚寺
参道を横切るJR横須賀線の踏切から「総門」を見る
 円覚寺踏切.JPG

「総門」前の階段脇は、緑に覆われています
 円覚寺総門.JPG

境内に入ると、「山門」前の階段脇も、緑に覆われています
 山門.JPG

北条時宗の廟所の「佛日庵」では、ムクゲが咲き始めています
 佛日庵ムクゲ.JPG

一番奥の「黄梅院」でも見るべき花は特にありません
 黄梅院.JPG

「方丈」では拝観後、庭園を眺めながら、ゆっくりと心身を休めましょう
 方丈.JPG

方丈庭園.JPG

「弁天堂」への長い階段では、暑さが増します
 弁天堂階段.JPG

 弁天堂と階段.JPG

 弁天堂.JPG

「弁天堂」の前には、国宝「洪鐘」の鐘楼があります
 洪鐘.JPG

 ※弁天堂との関わりは、「鎌倉検定−蒙古の襲来(1301年8月)を読む(14)」を参照。

境内では、サルスベリが咲き始めています
 サルスベリ.JPG

 
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2017年07月22日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1324年9月23日)を読む(18)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「正中(しょうちゅう)の変」です。
(30) 元亨4年(1324)9月23日
 六波羅探題への密告により、倒幕計画が発覚する(正中の変)。
 後醍醐天皇は、この日、釈明のために、勅使万里小路宣房を鎌倉に派遣する。10月には、倒幕計画に参加した日野資朝・俊基らが鎌倉に護送される。翌年、日野資朝は佐渡に配流となる。
 後醍醐天皇は、宣房の告文によって罪に問われず、虎視眈々と次の機会をうかがうことになる。

日野資朝(1290〜1332年)・日野俊基(?〜1332年)
 いずれも、1318年に即位した後醍醐天皇の親政に参加し、討幕計画に加わった公卿。
 日野家は代々天皇に仕える名家。資朝の父俊光は持明院統の重臣であったので、大覚寺統の後醍醐天皇に従った資朝に怒り、親子の縁を切ったといわれています。

後醍醐天皇(1288〜1339年)
 鎌倉時代後期から南北朝時代初期の第96代天皇。名は尊治。後宇多天皇の第2皇子。
 1318年に即位後、天皇親政を復活させ改革に努めたが、天皇政治をはばむ鎌倉幕府に敵意を抱き、日野資朝・俊基らの公卿とともに討幕計画を進めました。

 「正中の変」(1324年)と「元弘の変」(1331年)の2度の鎌倉幕府打倒計画は失敗に終わったが、流罪から復帰して、1333年、鎌倉幕府を滅亡させました。

鎌倉幕府もいよいよ大詰めです!!
鎌倉幕府滅亡までの権力者の変遷
・将軍の推移 久明親王→1308年「守邦親王」  
・執権の推移 北条高時→→→→1326年2月「金沢貞顕」→1326年4月「赤橋守時」  
・天皇の推移 花園天皇→→1318年「後醍醐天皇」  

 ※「守邦親王」は、将軍在位期間が最長の25年です。
 ※「金沢貞顕」は、執権在任期間が最短の2ヶ月です。
  →「鎌倉検定−蒙古の襲来(1285年11月17日)を読む(10)」を参照。

 
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2017年07月21日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1316年7月10日)を読む(17)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「北条高時の第14代執権就任」です。
(27)正和5年(1316)7月10日
 北条高時が執権となる。
 応長元年(1311)北条貞時が死去した時、嫡子の高時はまだ9歳であった。貞時は、得宗高時の後見を、内管領長崎円喜と安達時顕(高時の舅)に託した。その後、執権は北条一族の大佛宗宣、煕時、基時と推移したが、これはあくまで高時の成長を待っての暫定的な措置であった。
 高時が14歳となったこの年、正式に執権として就任したのであるが、政務の実権は、長崎氏らが掌握することになる。

北条高時(1303〜1333年)
 第14代執権。9代執権北条貞時の子。
 父と同じ14歳で執権となったが、実権は長崎円喜、高資父子、安達時顕が握っていた。
 そのため、闘犬、田楽、飲酒などにふけり、政治をおろそかにしました。

宝戒寺 徳崇大権現堂
 北条高時は、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、宝戒寺本堂右前にある徳崇大権現堂に祀られています。
 徳崇大権現.JPG

長崎円喜(?〜1333年)
 北条高時の執権就任と同時に内管領となりました。
 子高資(たかすけ)とともに幕府の実権を掌握、鎌倉幕府滅亡時に自刃しました。

文保元年(1317年)の「文保の和談」
 後嵯峨天皇以降、朝廷は皇位をめぐり、両統迭立による「持明院統」と「大覚寺統」の対立抗争が長期化していました。
 幕府は、「持明院統」と「大覚寺統」に対して、仲裁案を提案し、今後の皇太子の順序を示唆するも不調に終わっています。(この時は、花園天皇の時代)

皇室関係図(後醍醐天皇まで)
 皇室関係図.jpg

北条師時から高時までの執権の推移
 北条師時から高時の系図.jpg
 
posted by トシ999 at 11:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする