2017年09月23日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1447年3月)を読む(12)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「足利成氏の鎌倉公方就任」です。
(35)文安4年(1447)3月
 このころ、幕府は足利持氏の遺児(成氏)が鎌倉公方となることを認める。
 さらに7月4日、後花園天皇の綸旨をもって、上杉憲忠が関東管領に任じられる。その1ヶ月後の8月27日、成氏が鎌倉に迎えられる。
 また、この年の11月以前に、上杉憲実が伊豆へ隠遁している。

足利成氏(しげうじ)(1434〜1497)
 4代鎌倉公方「足利持氏」の四男で、幼名永寿王。
 1449年、成氏が元服し(8代将軍足利義成(後の義政)の偏諱を受ける)、鎌倉公方が復活するも、上杉氏被官(反成氏派)との対立が深刻化していきました。

 成氏は、父持氏を死に追いやった「上杉憲実および憲忠」の父子を憎んでいました。
 1450年に山内上杉家家宰「長尾景仲」が、扇谷上杉家家宰「太田資清」らと、成氏の鎌倉御所を襲う事件(江の島合戦)や、1454年に成氏が憲忠を鎌倉公方の御所で殺すなど、混乱の時代となっていきます。

「扇谷上杉管領屋敷遺迹」の石碑
扇谷上杉管領屋敷迹の石碑.JPG内大臣藤原高藤13代の子孫に、重房という人がいました。
宗尊親王に従って鎌倉に来て、丹波国上杉庄を拝領したところから、始めて上杉氏を名乗りました。
その曾孫の憲顕足利基氏の執事となってからは、一族は関東に大きな勢力を持つようになりました。
さらに重房から5代後の顕定は、扇谷家を起こしました。
文明の頃、扇谷家の6代目の定正は、賢臣の太田道灌を起用して扇谷上杉家の名を高めました。
世間の人々は、山内家と共に、両上杉または両管領といいました。
この場所がその屋敷の跡です。

上杉家 扇谷家の系図
 上杉家 扇谷家の系図.jpg

※「太田資清」は、上杉持朝に仕えて家宰職と共に相模守護代を務めました。
 その子に、「太田道灌」がいます。

太田道灌屋敷跡に建てられた「英勝寺」の惣門
 英勝寺総門.JPG

 
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2017年09月22日

鎌倉中央公園の今は 2017.9

鎌倉中央公園」は、6月のハンゲショウや2月の梅林が特に有名です。
 一部分だけですが、自然が織りなす水と緑の里山風致公園を少しだけ見てみました。

 まだ暑さが残る今ごろは、日中は散歩するには少し厳しいようです。

公園案内図
 全体で23.7haありますが、その一部の山崎口の周辺を見てみました。
鎌倉中央公園案内図.JPG

春にはその側でシダレザクラが咲く「しし石」
 しし石.JPG

「庭園植物園」では、「フイリヤブラン」が見られます
 庭園植物園.JPG

 フイリヤブラン.JPG

「ヤブラン」は園内のあちらこちらで見られます
 ヤブラン1.JPG

 ヤブラン2.JPG

「湿生花園」では、「アオサギ」が舞い降りてきました
 湿生花園.JPG

 アオサギ.JPG

「下池」も「上池」も静かです
 下池.JPG

 上池.JPG

いつできたのでしょうか、「スマホdeクイズ」のコースがあります
 スマホdeクイズ1.JPG

 スマホdeクイズ2.JPG

 
posted by トシ999 at 15:59| Comment(0) | 日記_2017 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月21日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1438年6月)を読む(11)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「永享の乱」です。
(31)永享10年(1438)6月
 足利持氏の子賢王丸が鶴岡八幡宮で元服する。上杉憲実は持氏に対して、先例に従い室町将軍の偏諱を請うように勧める。
 しかし持氏は聞き入れず、将軍の通字を入れて「義久」と名付ける。
 8月、持氏が上野に退避した憲実を討とうとするに至って、幕府は持氏討伐を決定する。
 後花園天皇に治罰の綸旨と錦旗を要請し、駿河守護今川範忠・陸奥篠川御所満直らに出兵を命じる(永享の乱)。

永享の乱
 京都と鎌倉の関係は、最悪の事態を迎えました。
 賢王丸元服に際しては、将軍足利義教の「教」を付けた名前にしなければなりませんでした。
 永享11年(1439)2月10日、足利持氏は、幕府軍との戦いに敗れ、自害しました。

足利持氏の第4代鎌倉公方時代の事件簿
1409年 
1411年 
1415年 
1416年 
1418年 
1419年 
1422年 
1428年 
1434年 
1435年
1438年
1439年
持氏が鎌倉公方就任。
関東管領に、上杉憲定→上杉氏憲(禅秀)へ。
関東管領に、上杉氏憲→上杉憲基へ。
上杉禅秀の乱」。翌年、足利満兼・上杉禅秀が自害。
関東管領上杉憲基が死去し、養子の憲実が後を継ぐ。
関東管領に上杉憲実
持氏が京都扶持衆を討伐する。
持氏が京都進撃を計画したが、憲実に止められる。
持氏が鶴岡八幡宮に血書願文を捧げ、関東支配を祈願する。
持氏が陸奥の篠川御所足利満直に対して討伐軍を派遣する。  
永享の乱」。持氏が憲実を討とうとしたため、幕府は、持氏討伐を決定する。  
持氏は幕府軍との戦いに敗れ、自害する。
京都扶持衆:鎌倉公方の指揮下にありながら京都の幕府と通じ、支援を受けていた武士たち。

別願寺にある「足利持氏の供養塔」
 1282年、公忍が一遍に帰依し、真言宗から時宗に改宗し、「別願寺」としました。
 「別願寺」は、足利一族が信仰し、鎌倉公方代々の菩提寺として栄えました。
 ここに大きな石の宝塔の「足利持氏の供養塔」があります。
 別願寺足利持氏供養塔.JPG
 この供養塔には、持氏の怒りを静めるために四方に鳥居の浮彫りがあります。
 持氏供養塔鳥居.JPG

「永享の乱」の後の混乱
 ・鎌倉公方と関東管領が空位になりました。
 ・持氏の遺児安王丸・春王丸を擁して「結城氏朝」が反乱するも、幕府軍に討たれました。(結城合戦
 ・京都では、赤松満祐が、将軍足利義教を暗殺しました。(嘉吉の乱

 
posted by トシ999 at 14:13| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする