2018年06月21日

鎌倉ゆかりの人物―伊勢宗瑞(北条早雲)のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「伊勢宗瑞(北条早雲)」です。

伊勢宗瑞(北条早雲)(1432または1456〜1519年)
 ・室町時代中後期の武将。後北条氏(小田原北条氏)の祖。
 ・初めは、「伊勢新九郎長氏(伊勢新九郎盛時)」と称していましたが、出家して
  「伊勢宗瑞(いせ そうずい)」と呼ばれるようになりました。
  ※「北条」を名乗るようになったのは、2代・氏綱の時代からです。

「後北条氏」の基礎を築いた経歴
・幕府奉行人出身の伊勢宗瑞は、1491年、堀越公方足利政知の子茶々丸を殺害し、伊豆への進出を図りました。
・1496 年、小田原城主を追出して城を奪いました。
・1512 年、相模岡崎城の三浦道寸(義同)を破り、住吉城(逗子市)に逃れた三浦勢を追撃するため鎌倉に入りました。また、鎌倉に「玉縄城」を築城し、北条氏の防衛拠点としました。
・1516年、三崎の新井城(三浦市)で三浦氏を滅ぼし、相模を手中に収め、後北条氏の基礎を築きました。

 ・1512年、小田原城を本拠とする「伊勢宗瑞(北条早雲)」は、鎌倉を支配していた
  三浦義同を攻めて敗走させ、鎌倉に入ったとき、戦乱で荒廃した鎌倉の復興の意思を
  詠んだ歌があります。
    「枯るる樹に また花の木を植ゑそへて もとの都になしてこそみめ

玉縄城址
 ・1512年、北条早雲が築いた玉縄城の城址は、大船駅の西北の丘陵地帯にあります。
 ・天然の要害となる丘陵に堀や土塁、曲輪などを加えた戦国時代の広大な山城でした。

 ・1590年に豊臣秀吉に無血開城されるまで、落城したことはありませんでした。
 ・当時をしのぶ地形は、七曲、太鼓櫓址、諏訪壇、ふわん坂などに残っています。

玉縄城を偲ぶコース案内図と城郭図
玉縄城址コース.JPG

玉縄城郭図.JPG

七曲坂と冠木門
 七曲坂看板.JPG

 冠木門.JPG

諏訪神社(植木)
・植木、岡本、城廻の鎮守。祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)。
・1512年、伊勢宗瑞(北条早雲)が玉縄城築造の際に勧請したといわれます。
・以後、北条氏の崇敬を集めたが、1619年に玉縄城が廃されたとき、現在地に移されました。その際、鎌倉権五郎景政(正)を祀る関谷の御霊社と合祀されました。
・農業の神として崇敬されます。

「小田原北条氏」と「玉縄北条氏」の系図
 小田原北条氏・玉縄北条氏系図.jpg

 
posted by トシ999 at 08:00| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月20日

鎌倉ゆかりの人物―有島武郎・有島生馬・里見クのあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。
 1902年(明治35)、横須賀線に次いで江ノ島電鉄が開通し、両線が少しずつ路線を延ばし本数も増えると、文学者たちの鎌倉への往来も増えていきました。

今回は「有島武郎・有島生馬・里見クの三兄弟」です。

有島武郎(1878(明治11)〜1923年(大正12))
 ・小説家、評論家。
 ・大正8年、『或る女のグリンプス』(のちに『或る女』と改題)の後編の執筆のため、
  円覚寺塔頭松嶺院で過ごしました。
  →「鎌倉文学館HP:有島武郎」を参照下さい。

円覚寺塔頭「松嶺院」
 松嶺院.JPG

有島生馬(1882(明治15)〜1974年(昭和49))
 ・画家、小説家。
 ・大正9年、稲村ヶ崎の新渡戸稲造の別荘に移転。翌年、「松の屋敷」といわれる邸宅
  へ移り、没年まで居住。
  兄・有島武郎、弟・里見クと共に「白樺」同人。セザンヌを初めて日本に紹介した。
  →「鎌倉文学館HP:有島生馬」を参照下さい。

里見ク(1888(明治21)〜1983年(昭和58))
 ・小説家。有島武郎・生馬の弟。
  大正13年に鎌倉へ。昭和28年から没年まで扇ガ谷に居住。
  鎌倉ペンクラブ会長を務めるなど、鎌倉文士を代表する作家のひとり。

 ・関東大震災の翌年の1924年(大正13)から1983年(昭和58)に94歳で、天寿を
  まっとうするまで、鎌倉に腰を据えて、鎌倉のみならず日本文壇の長老として君臨し
  ました。
  →「鎌倉文学館HP:里見ク」を参照下さい。

「石川邸<旧里見ク邸>」(西御門)
 ・1926年(大正15)に、里見クが自ら設計に携わり建てたといわれる洋館です。
 ・アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトの影響を受け、直線を多用した外観が
  特徴。
 ・1929年には書斎として和風の別棟が左手奥に建てられ、洋館とともに「鎌倉市景観
  重要建築物等
」に指定されています。
 石川邸.JPG

鎌倉文学館(長谷)
 ・1985年(昭和60)に開館。
  鎌倉ゆかりの文学者の直筆原稿や手紙、愛用品などを収集保存し、展示しています。
 鎌倉文学館.JPG
 ※「鎌倉文学館のHP」は、「コチラ」です。

 
posted by トシ999 at 08:00| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月16日

鎌倉ゆかりの人物―阿仏尼と冷泉為相のあれこれ

「鎌倉検定公式テキストブック(新版改訂)」から、鎌倉ゆかりの人物を見てみました。

今回は「阿仏尼とその息子・冷泉為相」です。

阿仏尼(1222?〜1283年)
 ・鎌倉時代中期の女流歌人。藤原為家(定家の子)の側室で、冷泉為相の母。
 ・「十六夜日記」の作者で、月影ヶ谷(現在の江ノ電「極楽寺駅」周辺)に、4年間住
  んだといわれています。最期は、帰京し没したという説もあります。

江ノ電「極楽寺駅」を海側に向かった右手奥の踏切の脇の「阿仏尼邸旧蹟の石碑」
 阿仏尼邸旧蹟1.JPG

 阿仏尼邸旧蹟2.JPG

阿仏尼邸旧蹟石碑.JPG阿仏尼は、藤原定家の子・為家の妻であり、和歌の師範家である冷泉家の祖である為相の母でもあります。

為相の異母兄為氏が、為相に属すべき和歌所の所領播磨細川庄を奪ったので、この事を執権時宗に訴え、その裁決を願い出るために、建治三年(1277)に京都を出発して東へと下り、住居を月影ヶ谷に定めました。すなわちこの場所です。
その時の日記を十六夜日記と言って世に知られています。
裁判は長引き、決着が着かず、弘安四年(1281)、遂にここで亡くなりました。

 ・並んで建っている「月影の谷若葉して道清志」(戸川稲村(高浜虚子門弟))の句碑
 戸川稲村句碑.JPG

阿仏尼の供養塔(扇ガ谷)
 ・鎌倉駅西口から今小路を北進して横須賀線沿いに歩き、英勝寺の少し先に行くと、
  「阿仏尼の墓」といわれる供養塔があります。
 阿仏尼の墓1.JPG

 阿仏尼の墓2.JPG

十六夜日記(1283年ころ成立)
・為家の死後、領地相続をめぐって、正妻の子・為氏と争う息子・為相の正当性を、鎌倉幕府北条時宗に訴えるため、1277年、京から鎌倉に下向しました。
 その旅の日記であり、鎌倉滞在記である「十六夜日記」を著しました。

・1279年10月16日、京都を出発し、10月29日、鎌倉に到着しました。
  (全工程を13日で踏破)
 「十六夜日記」は、その道中記、鎌倉滞在記と長歌との三部から成っており、旅の道中や鎌倉滞在中に詠んだ歌が、多く記されています。

・鎌倉滞在記では、次のように記されています。
 「あづまにてすむ所は月かげのやつとぞいふなる。浦ちかき山もとにて風いと荒し。山寺のかたはらなれば、のどかにすごくて浪の音、松の風たえず。

・また、和歌では、「鎌倉ペンクラブ選 鎌倉百人一首」にも取り上げられた、次のような歌が記されています。
 「知らざりし 浦山風も 梅が香は 都に似たる 春のあけぼの

・裁判は長引き、阿仏尼が生きている間には決着が着きませんでしたが、訴訟は為相に引継がれました。
 訴訟は、阿仏尼が鎌倉に下向してから34年後の1313年に、為相側の勝訴で決着しました。

・藤原為家の死後、三家(二条家(為氏)・京極家(為教)・冷泉家(為相))に分裂しましたが、後に二条家と京極家は断絶していまい、冷泉家だけが残りました。 

 ※阿仏尼の鎌倉下向については、「鎌倉検定−蒙古の襲来(1277年10月)を読む(5)」を参照

冷泉為相(1263〜1328年)
 ・和歌の名門、冷泉家の祖。通称は藤谷(ふじがやつ)中納言。
阿仏尼と冷泉為相の系図
 阿仏尼と冷泉為相の系図.jpg

浄光明寺(扇ガ谷)の山門前入り口に建つ「藤谷黄門遺跡の石碑」
 浄光明寺.JPG
 ※浄光明寺については、「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(泉谷山)」を参照。

藤谷黄門遺蹟の石碑.JPG冷泉為相卿は為家の子で、従二位中納言になりました。
和歌所の事で兄の為氏と争論の末、その母阿仏尼と共に鎌倉に来て幕府に訴えました。
そして、藤谷に住んだので、 藤谷殿と言われました。藤谷百首と呼び世に伝わる和歌は、この場所で詠まれたものです。

網引地蔵を建てるのに為相が関係していると言われています。為相卿の墓はこの後の山の頂にあり、五輪塔で月巌寺殿玄国昌久の八字が刻まれていたというが、 今は磨り減ってしまい、字体はよく読めません。

境内奥の最上階に、「冷泉為相の墓」が建っています
 冷泉為相の墓1.JPG

冷泉為相の墓2.JPGバランスのとれた宝筺印塔

宝筺印塔の代表作といえます。

下段にある反花座の蓮弁は、鎌倉時代の作例はふくらみを持った柔らかな表現となっているが、時代が下がるにつれてふくらみは失われていきます。

この塔は、ふくらみが弱く、鎌倉時代末期から南北朝時代初期頃の作と見られています。

 
posted by トシ999 at 08:00| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする