2017年10月22日

2016年鎌倉検定2級の問題からpickupする(1)

 鎌倉検定合格を目指して、2016年の過去問を見ながら、今の鎌倉を見てみましょう。
  なお、今年の鎌倉検定の試験日は、平成29年11月26日(日)です。

 今回は、「関東管領について」です。
⑴ 次のうちで初代の関東管領を務めたのはだれか。
 1 上杉憲方  2 上杉氏憲  3 上杉憲実  4 上杉憲顕
  

 ・1349年、足利尊氏は、鎌倉に義詮のあとに「足利基氏」を置いて初代「鎌倉公方」とし、関東執事として義詮の補佐をしていた上杉憲顕・高師冬が引き続き基氏を支え、義詮以来の鎌倉府の体制を固めました。

 ・そして、「上杉憲顕」は、1350年の「観応の擾乱」によって足利尊氏と対立し、一時地位を追われるが、尊氏死後の1363年、足利基氏の要請で幕政に復帰し、「関東管領」に任ぜられることになります。

 ・以後、「関東管領」の職は、上杉氏の家系に独占して伝えられました。

正解は、「4 上杉憲顕」です。 

 ※「鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1350年12月25日)を読む(5)」を参照。

上杉憲方・上杉氏憲・上杉憲実・上杉憲顕の関係図
 鎌倉公方と関東管領の系図1.jpg

明月院側の山ノ内の第三鎌倉道踏切の辺りに、山内上杉氏の屋敷があったということです
 (新編鎌倉志より)
 山内管領屋敷地図(新編鎌倉志).jpg

明月院にある「上杉管領屋敷」の石碑
 上杉管領屋敷.JPG

 
posted by トシ999 at 13:26| Comment(0) | 鎌倉検定(過去問) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月21日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1590年7月16日)を読む(9)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、最終回で、「豊臣秀吉の鎌倉入り」です。
(30)天正18年(1590)7月16日
 豊臣秀吉、小田原城を攻めて北条氏を滅ぼし、鎌倉に入る。
 天正18年2月、秀吉は徳川家康を先鋒として北条氏討伐の兵を発し、4月、小田原城を囲んだ。
 4月28日、玉縄城では、5代城主氏勝が籠城を決意するが、家康の説得に応じ開城した。
 7月5日、氏直が投降し、11日氏政・氏照が自害。
 13日、秀吉が小田原城に入城するに至り、北条氏は滅んだ。
 16日、秀吉は小田原城から奥州に向かう途中鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮に詣でて修理を命じた。

豊臣秀吉(1536〜1598年)
 秀吉は、鎌倉入りを果たすと、早速、「鶴岡八幡宮」の修理を命じ、指図(設計図)を作成させました。
 その造営にあったのは、徳川家康でした。
 鶴岡八幡宮・舞殿.JPG

鶴岡八幡宮の再建の歴史
 鶴岡八幡宮は、1063年、源頼義が源氏の守り神として、京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請したことに始まります(由比若宮=元八幡)。

鶴岡八幡宮は、源氏のみならず、足利氏、豊臣氏、徳川氏からも篤く崇敬されました
 ・1180年に鎌倉入りした「源頼朝」が、現在の地に遷座して鶴岡若宮と称しました。
 ・「源頼朝」は、1191年、焼失した若宮(下宮)再建時に本宮(上宮)を創建し、現在のような上下両宮の姿としました。1193年には下拝殿(舞殿)が新造されました。
 ・現在の若宮は、1624年、徳川幕府2代将軍「徳川秀忠」によって再建造営されました。
 ・なお、本宮は1828年、11代将軍「徳川家斉」によって再建造営されました。


小田原北条氏・玉縄北条氏の系図
 小田原北条氏・玉縄北条氏系図.jpg

玉縄北条氏供養塔(龍寳寺)
 玉縄北条氏供養塔.JPG



 ※今回で、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)の全編が終了しました。

 「源頼朝が鎌倉入りを果たした治承4年(1180)10月」から「豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし鎌倉入りを果たす天正18年(1590)7月」まで、いろいろな出来事を見てきました。


 次回からは、鎌倉検定を11月に控え、過去の問題をピックアップして、今の鎌倉を見てみましょう。

 
posted by トシ999 at 15:02| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月20日

鎌倉検定−後北条氏の盛衰(1578年10月10日)を読む(8)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「上杉謙信の死去」です。
(29)天正6年(1578)10月10日
 上杉景虎(北条氏政の弟)、鶴岡八幡宮に戦勝・武運長久を祈願する。
 景虎は、北条氏康の子で氏政の弟氏秀であるが、初めは武田晴信(信玄)の養子となり、のちに上杉輝虎(謙信)の養子となって名を景虎と改めていた。
 天正6年3月、謙信が亡くなると養子の景勝と景虎がその跡目をめぐって争いになった。
 景虎は、翌7年3月景勝に攻められ御館城に籠って応戦し敗れて(御館の乱)、鮫ヶ尾城に逃れたが敗死した。

上杉謙信(長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→法号:謙信)
 1578年3月、上杉謙信が死去すると、跡目争い(御館の乱)が起きました。

御館の乱
 「上杉謙信」が死去すると、上田長尾氏から養子に入った「景勝」と、小田原北条氏から養子に入った「景虎」の間で相続をめぐって内紛が勃発しました。

御館城(新潟県上越市)
 1552年、「上杉謙信」が、北条氏康に攻められた関東管領上杉憲政を迎えたときに築いたとされる居館。(春日山城の城下に設けられました。)
 ※上杉謙信」は、春日山城で生まれ、生涯ここを本拠としました。

これまでの戦国時代の関東地方の出来事
 「応仁の乱(1467年)」に先駆けて、「享徳の乱(1454年)」で、関東は大動乱の時代に入りました。
  ※「享徳の乱」については、「鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1454年12月27日)を読む(13)」を参照。

・1455年、足利成氏が古河公方となり、鎌倉は上杉氏の支配へ。
・1458年、将軍足利義政の異母兄の足利政知が、鎌倉に入れず堀越公方となる。
・1486年、扇谷上杉定正の執事太田道灌が、主君定正に謀殺される。
・1512年、伊勢長氏(北条早雲)が、鎌倉に玉縄城を築城する。
・1520年、北条氏綱が、鎌倉検地を行う。
・1526年、安房の里見実尭が鎌倉を攻め、北条氏綱の兵と戦う。
・1547年、北条氏康が、鎌倉検地を行う。
・1556年、安房の里見義弘が鎌倉を攻め、太平寺住職の青岳尼を安房に連れ去ったため、寺は廃寺となる。
・1561年、長尾景虎(上杉謙信)が、鶴岡八幡宮で上杉氏を名乗る拝賀式を行う。 

<1560年ごろの関東地方勢力図イメージ>
 関東勢力イメージ1560年.jpg

 
posted by トシ999 at 12:24| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする