2015年09月30日

鎌倉永福寺跡の今は 2015.9

現在、二階堂で史跡公園として整備中の「永福寺跡」を2月以来、久しぶりに見てみました。

永福寺
 「永福寺」は、「鶴岡八幡宮」、「勝長寿院」とともに、源頼朝が鎌倉入りしてから創建した三大寺院の一つです。
 源頼朝は、平泉の藤原泰衡や源義経をはじめとする内乱での戦死者の鎮魂と慰霊のため、平泉中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模して「永福寺」を創建し、1194年に中心伽藍が完成しました。

 平成23年度〜27年度にかけて、史跡公園として整備中です。
 現在は、「浄土庭園の池」の部分の復元が行われて、池の水もキラキラと輝いていました。

 <展望台から見る全景(木が邪魔して一部しか見渡せません。)>
 永福寺跡1.JPG

 <基壇の部分は整備完了で、以前と変わりはありません>
 永福寺跡2.JPG

 <浄土庭園の池には水が張られています>
 永福寺跡3.JPG

 <浄土庭園の池から後方の基壇の方面を臨む>
 永福寺跡4.JPG

 ※2月の様子は、「鎌倉永福寺跡の今は 2015.2」を参照。
 
ラベル:鎌倉 永福寺跡
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2015年09月29日

鎌倉のキンモクセイ―圓應寺

鎌倉の9月の花「キンモクセイ」について、「圓應寺本堂前」を見てみました。

先に、「9月の鎌倉の見どころは?」で紹介した圓應寺の「キンモクセイ」の様子は、今年2015年はどうでしょうか。

圓應寺本堂前
 <本堂前の左右に巨木があります。今が見ごろです。>
 圓應寺キンモクセイ1.JPG

 <本堂に向かって2本の巨木を見る>
 圓應寺キンモクセイ2.JPG

 <本堂の入口から振り返って見てみる>
 圓應寺キンモクセイ3.JPG

 <青空に映えるキンモクセイ>
 圓應寺キンモクセイ5.JPG

 <キンモクセイ>
 圓應寺キンモクセイ4.JPG
 
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2015年09月28日

鎌倉時代初期の悲劇の御家人達

鎌倉検定の過去の問題に、次のようなものがあります。
源実朝が征夷大将軍の時に滅ぼされた御家人の組み合わせはどれか。
 1 比企能員・梶原景時  2 和田義盛・比企能員  3 比企能員・畠山重忠
 4 和田義盛・畠山重忠 

正解は、<4 和田義盛・畠山重忠>です。

 1199年に源頼朝が死去し、「源頼家」が家督を継ぐと、権力争いの闘争が繰り返し行われるようになりました。
 その流れを知っておくと、鎌倉歴史散策もおもしろくなります。

 上記の4人の事件の年代の順序は、次の通りです。
 源氏三代の衰退と北条氏の台頭を見ながら、4人の関係を見るとわかりやすいです。
梶原景時 → 比企能員 → 畠山重忠 → 和田義盛 

梶原景時
 頼朝の死後、御家人の反感を買い、1200年、京都に落ち延びる途中、駿河国で一族もろとも滅ぼされました。
 <梶原景時とその一族の墓(深沢小学校内)>
 梶原一族の墓.JPG

比企能員
 1203年、「北条時政」の策略で、一族もろとも滅ぼされました。
 (比企氏の乱→「鎌倉時代の比企氏の乱とは?」参照。)
 この後、源頼家は伊豆に流され暗殺されました。
 <比企一族の墓(妙本寺)>
 比企一族の墓.JPG

※ここで頼家の時代が終わり、「源実朝」が、鎌倉幕府の第三代征夷大将軍となりました。

畠山重忠
 1205年、「北条時政」の後妻牧ノ方の女婿平賀朝雅が畠山重忠の子重保と口論したことをきっかけに、重忠・重保親子は、時政の策略で、謀反の疑いにより北条軍に討たれてしまいました。(畠山重忠の乱)
 この後、「北条政子・義時」らによって、時政は失脚しました。
 <畠山重保の墓(若宮大路)>
 畠山重保の墓.JPG

和田義盛
 1213年、「北条義時」の策略で、一族もろとも滅ぼされました。
 (和田合戦→「和田合戦のこと―鎌倉検定2014年1級の問題から見た鎌倉(21)」参照。)
 <和田一族の墓と和田一族戦没地の石碑(和田塚)>
 和田義盛の墓.JPG
 
posted by トシ999 at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定(過去問) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする