2017年01月31日

北鎌倉にロウバイを探して 2017.1

1月の花に「ロウバイ」があります。
 先に、金沢街道浄明寺地区にある「報国寺」と「浄妙寺」で、「ロウバイ」の花を見てみました。
  →「鎌倉金沢街道にロウバイを探して 2017.1」を参照。

 今回は、北鎌倉の「浄智寺」と「明月院」で「ロウバイ」の花を見てみました。

金宝山浄智寺
浄智寺参道.JPG鎌倉五山第4位。
臨済宗円覚寺派。

1281年、北条宗政の菩提を弔うため、その子の10代執権北条師時らが創建。
開山に南洲宏海が招かれたが、師の大休正念と兀菴普寧に譲ったことで、開山は3人です。

<県道からの入口の「ロウバイ」はしっかりと咲いています>
 浄智寺入口ロウバイ1.JPG

 浄智寺入口ロウバイ2.JPG

<曇華殿の前の「ロウバイ」はもう無く、横の「ロウバイ」も少しです>
 浄智寺ロウバイ1.JPG

<境内中では、茅葺の小堂に映える「ロウバイ」が見られます>
 浄智寺ロウバイ2.JPG

<しかし、浄智寺ではもうの季節のようです>
 浄智寺白梅.JPG

福源山明月院
明月院入口.JPG1160年、首藤刑部大輔俊道の子、山ノ内経俊が菩提を弔うため明月庵を創建。
1256年北条時頼が最明寺を創建したが廃寺となり、その後、北条時宗が禅興寺を創建。
1380年、鎌倉公方足利氏満から命を受けた上杉憲方が、禅興寺を中興。
明治初年、廃寺となり、筆頭の支院だった明月院だけが残りました。

<山門への参道脇に「ロウバイ」が咲いています>
 明月院参道ロウバイ1.JPG

 明月院参道ロウバイ2.JPG

<開山堂(宗猷堂(そうゆうどう))の後ろに「ロウバイ」が咲いています>
 明月院開山堂.JPG

 明月院開山堂ロウバイ.JPG

<その他、境内にはあちこちに「ロウバイ」が見られます>
 明月院ロウバイ1.JPG

明月院ロウバイ2.JPG

<「マンサク」も満開です>
 明月院マンサク1.JPG

 
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2017年01月29日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1185年10月24日)を読む(8)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

J文治元年(1185)10月24日
 源頼朝の臨席のもと、勝長寿院(南御堂)の開堂供養が行われる。勝長寿院は、かつて平治の乱で敗死した父義朝の菩提を弔うために、頼朝が建立したもの。
 同寺には、京都の獄門付近で探し出され、去る8月、文覚上人の弟子たちによって鎌倉へ運ばれてきた義朝の首が埋葬される。

勝長寿院跡(雪ノ下)
「勝長寿院旧蹟」の石碑
勝長寿院旧蹟.JPG勝長寿院」は、源頼朝が鎌倉で創建した「三大寺院」の一つです。

奈良から仏師「成朝」を招いて、黄金の阿弥陀像を造らせて安置したと伝えられています。

室町期に衰退し、廃寺になりました。

 ※「三大寺院」のあと二つは、「鶴岡八幡宮と永福寺」です。

「源義朝と鎌田政長(政家)の墓」と「供養塔再建由来の碑」
 ここには、「源義朝と鎌田政長(政家)の墓」と「供養塔再建由来の碑」が建っています。
 鎌田政長(政家)は、最後まで義朝に仕えた家臣です。
義朝の墓.JPG 供養塔再建由来の碑.JPG

文覚上人屋敷迹
文覚上人屋敷迹 .JPG雪ノ下の「田楽辻子の道」の入口、滑川に架かる「大御堂橋」の傍らに、文覚が住んだといわれる「文覚上人屋敷迹」の石碑があります。

ここを流れる滑川が古くは「坐禅川」といわれたのは、文覚上人が近くに屋敷を構えていたことにちなんでということです。

文覚上人屋敷迹石碑.JPG文覚はもともと遠藤盛遠(えんどうもりとお)という武士だったが、渡辺(源)渡の妻袈裟御前に懸想し、誤って殺してしまい、その女性の供養のため出家し、僧侶になったという。

また、京都神護寺再興のために後白河法皇に勧進したものの、怒りを買い伊豆に流され、そこで源頼朝と出会い親交を深め、平家討伐の挙兵を勧めたといわれています。

1181年、「源頼朝の祈願所」として創建された「補陀洛寺(材木座)」の開山として伝えられています。

「成就院」にある文覚上人の「荒行像」
 文覚上人荒行像.JPG

「勝長寿院跡」と「文覚上人屋敷迹」の場所
勝長寿院跡と文覚上人屋敷跡地図.jpg

 
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2017年01月28日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1185年5月24日)を読む(7)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

I文治元年(1185)5月24日
 源義経が鎌倉入りを許されないため、腰越駅から大江広元に対し、兄頼朝へのとりなしを依頼する書状(腰越状)を送る。
 去る15日、敵将平宗盛父子を護送して酒勾駅(小田原市)まできた義経は、そこで父子の身柄引き渡しを求められ、自身は不義の噂があるとして鎌倉入りをとどめられていたもの。
 結局、義経は、翌月9日、宗盛父子を連れて帰洛し、10月には挙兵するも失敗、逃亡生活に入ることになる。

龍護山満福寺
本堂
満福寺本堂.JPG真言宗。
奈良時代、関東に悪い病気が流行していたとき、聖武天皇にこの病気を排除するよう命ぜられた行基が鎌倉へ来て、前方に広がった海原と後方の山並みがとても美しいこの場所で祈りをささげると不思議に病気がおさまったといわれ、仏の功徳をたたえてここに寺を建てることにしたといわれています。

本堂前の「義経と弁慶の石像」
義経と弁慶.JPG義経と弁慶」ゆかりの寺、満福寺には、弁慶筆とされる腰越状の下書きが残されています。

また満福寺では義経の首の検分も行われたといわれています。

 義経弁慶石像.JPG

弁慶筆とされる「腰越状」の下書き
腰越状.JPG1185年、平氏を滅ぼし鎌倉へ凱旋した源義経は、兄頼朝に鎌倉入りを拒絶されました。

義経は腰越にとどまって、頼朝の怒りを解こうとしたが許されず、大江広元に書状を出し、力添えを頼みました。

これが「腰越状」です。

 ※自分には功績があっても罪はなく、野心もないのに許されない。私に誤りが無い事を認めいただいて、お許しに預かりたいと、頼朝の仕打ちを嘆き、肉親の情に訴える内容となっています。

「義経」のふすま絵
満福寺ふすま絵.JPG本堂の中には、鎌倉彫の技法をとりいれた「義経と静」の別れの場などを描いた三十二面のふすま絵があります。

満福寺の場所
 満福寺地図.jpg


満福寺については、「鎌倉腰越のお寺を見る(龍護山)」を参照。

 
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