2017年02月27日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1199年10月28日)を読む(17)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(28)正治元年(1999)10月28日
 千葉常胤・三浦義澄ら有力御家人66名が鶴岡八幡宮の廻廊に集結し、梶原景時糾弾の訴状を提出する。
 前日、景時が結城朝光を源頼家に讒言したことをきっかけに、これまで景時の讒言によって多数の失脚者がでていることに対する不満が爆発したとか、景時が頼家に対し、御家人たちの間で頼家の弟千幡(実朝)を主君にたてようとする陰謀が進められていると報告したためとかいわれている。
 結局、景時は鎌倉追放となり、さらに翌年正月20日、上洛途中に駿河国清美関で討たれることになる。

梶原景時(1140年?〜1200年)
 1180年の石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され、頼朝の信任厚く、鎌倉一帯に一勢力をなしていました。
 源平の合戦で景時は息子の「源太景季(かげすえ)」と共に活躍し、平家を滅ぼした後、朝廷の人気者になった源義経を頼朝に訴え出て追放する等、政治の裏で立ち回りました。
 その為、頼朝亡き後、同僚に嫌われて、景時一族は鎌倉を追放され、京へ向かう途中の駿河の清美関(静岡県清水市)で土豪の手にかかり殺害されました。

梶原景時とその一族の墓(深沢小学校内)>
梶原景時の墓.JPG景時はゆかりの地、鎌倉梶原にある深沢小学校の裏庭に眠っています。

頼朝の死後、御家人の反感を買い、1200年、京都に落ち延びる途中、駿河国で一族もろとも滅ぼされました。

梶原太刀洗水
梶原太刀洗水.JPG1183年、「梶原景時」は、源頼朝の命を受けて、頼朝が幕府を開くにあたり大きな功績のあった「上総介広常」を討ったあと、この水で太刀の血のりを洗い流したといわれています。

朝夷奈切通の太刀洗川に沿った岩肌から湧き出ている水で、「鎌倉五名水」の一つです。

 ※上総介広常:源頼朝の平氏打倒の挙兵時に頼朝に味方し、上総国の最有力者の威勢を示していました。しかし広常の権力が高まるにつれ、頼朝の目の上のたんこぶとなり、謀反の疑いを掛けられ暗殺されました。

梶原源太景季(かげすえ)(1162年〜1200年)
 景季は、父景時と共に源頼朝の下で活躍しましたが、頼朝が亡くなった後、父景時が他の御家人に疎まれて鎌倉を追放になると景季もこれに従い、最後は駿河で討たれてしまいました。

源太塚
仏行寺ツツジ6.JPG笛田にある「仏行寺」の山の頂上に、梶原源太景季の片腕が埋められていると伝えられている「源太塚」があります。

しのぶ塚
しのぶ塚.JPG鎌倉山には、「源太塚」と向き合って建っている「しのぶ塚」があります。
これは、梶原源太景季の妻・信夫(しのぶ)のもので、しのぶは源太の死に嘆き悲しみ自害したということです。
 
「仏行寺」と「しのぶ塚」の場所
仏行寺としのぶ塚地図.jpg

 
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2017年02月26日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1199年正月13日)を読む(16)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(26)正治元年(1199)正月13日
 征夷大将軍源頼朝が死去する(53歳)。
 前年11月、稲毛重成が亡妻の冥福を祈るために新造した相模川の橋供養に参列しているが、その帰路に落馬したこと、また「飲水重病(重い糖尿病)」などが死因としてあげられている。
 のち2月6日には宣旨が到着し、嫡男頼家が頼朝の遺跡を相続する。ただし、頼家が正式に征夷大将軍に任じられるのは、建仁2年(1202)7月のことになる。

源頼朝(1147〜1199)
「頼朝の墓」の場所
 頼朝の墓地図.jpg

「頼朝の墓」の案内板
頼朝の墓案内板.JPG

「頼朝の墓」へ通じる53段(53歳で死去)の階段
 頼朝の墓階段.JPG

源頼朝の墓(西御門)
源頼朝の墓.JPG同じ石を何層にも重ね、その上に相輪を立てた形をした「層塔」です。

1779年、江戸時代に頼朝の子孫と称した薩摩藩主・島津重豪(しげひで)が建てたもの。
この辺りが法華堂跡とされ、もとは頼朝の持仏堂で、1189年に聖観音を本尊として建てられました。

墓石に付いている島津家の家紋「丸に十の字」
 島津家家紋.JPG

「法華堂跡の石碑」と「白旗神社」
法華堂跡石碑と白旗神社.JPG江戸時代、頼朝の墓の下に堂があり、これを「法華堂」と称しました。

明治時代になり廃され、1872年、「白旗神社」となりました。

源頼朝の落馬の地
頼朝落馬の地地図.JPG頼朝の死には、「落馬による怪我」、「病気」、「暗殺」などの諸説がありますが、死因は定かではありません。

ここでは、「落馬の地」といわれている鎌倉市の隣の「藤沢市辻堂」の場所です。

頼朝落馬の地.JPG源頼朝は、1198年、稲毛重成が亡き妻の冥福を祈るために行った「相模川の橋供養」に参列し、その帰路で落馬して、翌年命を落とすこととなります。

落馬は、もともと病気であったから、弟源義経や叔父源行家らの亡霊に遭遇したから落馬したとも伝えられています。

頼朝落馬の地案内板.JPG頼朝がわざわざ稲毛重成の妻の供養に出席したのは、その妻が北条政子の妹だったからではないでしょうか。

 
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2017年02月23日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1195年2月14日)を読む(15)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(25)建久6年(1195)2月14日
 源頼朝が、妻の北条政子や嫡男頼家・長女大姫を伴って、奈良の東大寺大仏殿の落慶供養に出席するために、鎌倉を出発する。頼朝らは京都にも逗留し、7月8日、鎌倉に帰着することになる。
 なお、頼朝は、この二度目の上洛で、大姫入内のはたらきかけを行うも、大姫は翌々年7月に死去する。

大姫(1178年〜1197年)
大姫の系図
大姫と木曽義高系図.jpg1183年、木曽義仲と頼朝の対立で人質として鎌倉に送られた「義高」と幼くして婚約しました。
1184年、「大姫」は義高を密かに逃がしたが、捕えられ討たれました。義高の死を知った大姫は、病床に伏すなど傷心の日々を過ごし、20歳で亡くなりました。

大姫の「岩船地蔵堂」と横須賀線
岩船地蔵堂.JPG扇ヶ谷の亀ヶ谷坂入口に、大姫の守本尊とされる石造地蔵尊を祀る「岩船地蔵堂」があります。

この堂は古くから大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。

石造地蔵尊(岩船地蔵)」は、舟形光背を持ち、岩船地蔵の名の由来となっています。

「岩船地蔵堂」の案内板
岩船地蔵堂案内板.JPG

※「木曽義高」については、「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1184年4月21日)を読む(5)」を参照。

 
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