2017年03月25日

鎌倉光則寺の今は 2017.3

梅も終わり、本格的な春を前にして、「光則寺」の様子を見てみました。

行時山光則寺
 このお寺については、「鎌倉長谷のお寺を見る(行時山)」を参照。

<山門前の「シダレザクラ」は、咲き始めていますが、ボリュームは少しです>
 光則寺門前.JPG

 光則寺シダレザクラ.JPG

<山門の左手には、「コブシ」が咲き始めています>
 光則寺コブシ1.JPG

 光則寺コブシ2.JPG

<境内本堂前の「カイドウ」はつぼみが大きくなりました>
 本堂前のカイドウ.JPG

 光則寺カイドウつぼみ.JPG

<「ミツマタ」は、境内のあちらこちらで見られます>
 光則寺ミツマタ.JPG

<「ミツバツツジ」は、いよいよ咲き始めるところです>
 光則寺ミツバツツジ.JPG

<池の対岸の畔には、遠く「トサミズキ」と「サクラ」が見られます>
 光則寺トサミズキ.JPG

 光則寺シナミザクラ.JPG

 これからの季節が楽しみな花の寺です。

 
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2017年03月24日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1213年5月2日)を読む(23)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(42)健保元年(1213)5月2日
 和田義盛とその一族が、とくに二月以来、険悪な関係にあった北条氏打倒をめざして挙兵する(和田合戦)。
 義盛の軍勢は将軍御所・北条義時邸・大江広元邸を襲撃するが、従兄弟の三浦義村の裏切りもあって、義盛は翌日、敗死する。
 合戦後、北条義時は従来の政所別当のほか、義盛にかわって侍所別当も兼任することになる。

和田義盛(1147〜1213年)
 鎌倉幕府初代の侍所別当。
 三浦氏の一族で、平家追討や奥州合戦に参加し、源頼朝に信頼された。 
 
和田義盛と三浦義村の関係図
 和田義盛と三浦義村関係図.jpg

「和田合戦」に至る伏線
・信濃国住人「泉親衡」が故源頼家の遺児を将軍とし、北条義時を討つという謀叛の計画が露見し、多数の計画加担者の中に和田義盛の子や甥も含まれ、義盛の子の義直・義重、甥の胤長が逮捕された。
・義盛は将軍に一族の赦免を嘆願。義盛の多年の勲功に免じて子の義直・義重は赦免されたが、甥の胤長は事件の張本人として許されず、和田一族の面前で縄で縛られ流罪となってしまった。
・胤長の屋敷は没収されたが、慣例により屋敷は一族に下げ渡され、義盛は屋敷に代官を置いた。
・ところが、突然北条義時は旧胤長屋敷を泉親衡の乱平定に功績のあった者に与えると決め、義盛の代官を追い出してしまった。
・このような度重なる義時の挑発に、義盛は挙兵を決断した。

和田合戦
 ・和田義盛は北条義時打倒の兵を挙げたが、三浦義村は義盛を裏切り、義盛の挙兵を義時に伝えた。
 ※三浦義村の裏切りで、義村は他の御家人から、「三浦の犬は友を食らうぞ」と批判されたといいます。

 ・義盛の軍勢は三手に分かれ、将軍御所・北条義時邸・大江広元邸を襲撃した。
 ・義盛の三男朝比奈三郎義秀の軍勢が御所に突入して放火したため、御所は焼失した。
 ・将軍御所を攻められた源実朝は頼朝法華堂に避難している。
 ・和田軍は大いに奮戦したが、次第に北条軍に押され由比ヶ浜に退いた。
 ・翌日、由比ヶ浜や若宮大路で戦闘が行われ、義盛らが戦死して、合戦は終結した。

和田塚
 江ノ電和田塚駅の南側に「和田一族の墓」があり、「和田塚」と呼ばれている。
 和田塚.JPG

 和田義盛一族の墓.JPG

「和田塚」の場所
 和田塚の地図.jpg
 
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2017年03月21日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1211年10月13日)を読む(22)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(40)建暦元年(1211)10月13日
 鎌倉滞在中の京都鴨社の氏人鴨長明が、源頼朝の忌日にあたるとして、その墳墓堂である法華堂に参り、和歌一首を堂の柱に記す。
 長明の詠んだ和歌は「草も木も靡きし秋の霜消えて空しき苔を払う山風」というもの。
 今度の滞在で長明はたびたび源実朝に謁見しているが、長明を実朝に推挙したのは、『新古今和歌集』の撰者の一人飛鳥井雅経。
 なお長明は、帰京後の翌年三月、『方丈記』を執筆することになる。

鴨長明(1155〜1216年)
 平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。
 清少納言の「枕草子」、兼好法師の「徒然草」とともに、日本三大随筆の一つである「方丈記」の作者。
 1211年、飛鳥井雅経(あすかいまさつね)の供として鎌倉に下向してきて、3代将軍源実朝と面談しました。

飛鳥井雅経(1170〜1221年)
 和歌・蹴鞠に秀でた公家。飛鳥井流蹴鞠の祖。妻は大江広元の娘。
 京都と鎌倉の文化交流に貢献しました。
 →「鎌倉時代前期に鎌倉に来た鴨長明」を参照。

法華堂(西御門)
 1189年に聖観音を本尊として、鶴岡八幡宮の東側、現在の清泉小学校裏手に建てられました。もとは頼朝の持仏堂で、頼朝は死後、ここに葬られました。
 江戸時代、頼朝の墓の下に堂があり、これを「法華堂」と称したが、明治新政府が発した神仏分離に関する布告でこの法華堂は廃され、1872年、白旗神社となりました。
 →「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1199年正月13日)を読む(16)」を参照。

源実朝(1192年〜1219年)
 鎌倉幕府三代将軍。源頼朝と北条政子の次男。
 鎌倉時代前期の万葉調の歌人として知られ、藤原定家に師事しました。
 また後鳥羽上皇とも親密な関係にありました。

 家集に『金槐和歌集』があります。
 「金」は「鎌倉」の鎌の字の「かねへん」を表し、「槐」には「大臣」という意味があります。

 以下に、実朝の歌を紹介します。
鎌倉国宝館前の関東大震災で倒壊した二ノ鳥居に刻まれた歌碑
 『山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心わがあらめやも』
 実朝歌碑1.JPG

鎌倉海浜公園(坂ノ下)の百人一首でおなじみの歌の歌碑
 『世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟のつなでかなしも』
 実朝歌碑2.JPG

鎌倉文学館に設置された歌碑(外灯碑)
 『大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけて散るかも』
 実朝歌碑3.JPG

鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の脇にある実朝桜の歌碑
 『風さわぐをちの外山に雲晴れて 桜にくもる春の夜の月』
 実朝桜の歌碑.JPG

鎌倉商工会議所1Fにも歌碑があります
 『箱根路を わが越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に波の寄る見ゆ』

その他、有名な歌をいくつか紹介します。
 『時により 過ぐれば民の 嘆きなり 八大龍王雨やめたまへ』(1211年、洪水の止雨を祈る)
 『出ていなば 主なき宿と 成りぬとも 軒端の梅よ春をわするな』(1219年、暗殺前に読む)

 
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