2017年04月05日

鎌倉検定−天変地異起こる(1219年1月27日)を読む(1)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回から、「第一部 鎌倉幕府の興亡 第二章 天変地異起こる」を読むことになります。

@承久元年(1219)1月27日
 源実朝、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の式に出て退出の際、源仲章とともに甥の鶴岡八幡宮別当公暁によって殺害される。公暁も乳母の夫三浦義村のもとへおもむく途中に殺され、頼朝の源家は断絶するところとなった。
 二月北条政子は、後鳥羽上皇の皇子を将軍として下向させることを申請するが拒否される。
 七月左大臣藤原(九条)道家の子三寅(二歳、のち頼経)が、頼朝の遠縁にあたることにより、将軍に後嗣として鎌倉に入っている。

源実朝(1192年〜1219年)
2010年まであった正月のころの鶴岡八幡宮大イチョウ
1月の大イチョウ.JPG・源実朝暗殺の場面
1219年、実朝はちらちらと粉雪が舞う中、右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮参拝に向かっていました。正月酉の刻(午後六時)のことでした。

さて、拝賀式を終えて、実朝は、鶴岡八幡宮の石段に降り積もった雪を進んでいくその時、大イチョウの陰に潜んでいた公暁は、父の仇とばかり実朝に襲い掛かり首を討ちとりました。

執権北条義時は、実朝の太刀持ちを務めていたが、具合が悪くなり源仲章に太刀持ちを任せ、自分の館に引き返しており、難を逃れました。

 ※「北条義時の戌神将伝説」については、「鎌倉覚園寺についてのあれこれ」を参照。

実朝は、死を予知したかのような和歌を残していました
 「出ていなば 主なき宿と成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」

壽福寺にある「源実朝の墓(供養塔)」と伝わる五輪塔
 源実朝の墓.JPG

「源實朝をしのぶ」石碑
 壽福寺総門の手前右には、源実朝生誕八百年を記念し、平山郁夫氏の書による石碑が建っています。
 源実朝をしのぶ碑.JPG

公暁(1200〜1219)
 二代将軍頼家の次男。頼家の死後、北条政子の計らいにより、鶴岡八幡宮の僧籍に入り、その後別当を務める。
 父の死の原因が、実朝と北条氏の策謀によるものとして「父の仇」を討つ目的で凶刃をふるったといわれる。

九条(藤原)頼経(1218〜1256年)
 鎌倉幕府4代将軍。公家の九条家出身で、源頼朝の妹の曾孫にあたる。
 後に北条氏と対立し、1246年、京都に追放された。

「源頼朝」と「九条頼経」の関係図
 頼朝と九条頼経の関係図.jpg
 
posted by トシ999 at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする