2017年07月28日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1333年12月14日)を読む(22)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「足利直義の鎌倉下向」です。 鎌倉幕府が滅亡し、鎌倉はどうなったのでしょうか?
(36)元弘3年(1333)12月14日
 足利直義が成良親王を奉じて鎌倉に下向する。
 鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏の嫡子千手王(のちの義詮)が鎌倉に入り、二階堂の別当坊で軍勢を統括し、新田義貞も足利氏に野心のないという起請文を退出していた。
 しかし、幼少の千手王では心細いと、この日、4歳の後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて、尊氏の弟直義が鎌倉に入ったのである。

足利直義(1306〜1352年)
 足利貞氏の三男で、足利尊氏の同母弟。
 鎌倉幕府滅亡後、鎌倉に入り、尊氏とともに建武の新政に貢献したが、のちに不和となり、毒殺されました。

成良親王(1326〜1344年)
 後醍醐天皇の皇子。鎌倉幕府滅亡後、関東統治を目的に鎌倉へ下向。
 その後、京に戻り、1335年征夷大将軍に任ぜられるが、まもなく解任されました。

泉谷山浄光明寺
 1251年創建。開山は真阿(真聖国師)。開基は北条長時(6代執権)。
 1333年に成良親王の祈願所となる一方、浄土、華厳、真言、律の四つの勧学院を建て、学問道場としての基礎を築きました。
 また、足利尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、寺領や仏舎利の寄進を受けました。

山門
 浄光明寺山門.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(泉谷山)」を参照。



これで、「第一部 鎌倉幕府の興亡  第三章 蒙古の襲来」は終わりです。

次回から、「第二部 鎌倉公方の盛衰  第一章 鎌倉公方の誕生」を読みます。

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2017年07月27日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1333年5月22日)を読む(21)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「鎌倉幕府の滅亡」です。
(35)元弘3年(1333)5月22日
 新田義貞らが鎌倉を攻撃し、鎌倉幕府が滅亡する。
 義貞は、5月8日、上野国生品神社で挙兵し、18日には鎌倉に迫り、極楽寺・化粧坂・山内三方から攻撃する。 18日から市中では激戦が展開していたが、21日義貞は稲村ヶ崎から市内に突入し、22日、得宗北条高時はじめ一族は、東勝寺で自害し、北条氏は滅亡する。

鎌倉幕府の滅亡
 後醍醐天皇の倒幕運動に呼応して、「新田義貞」は、後世、鎌倉街道と呼ばれる「上の道」、「中の道」、「下の道」のうち、「上の道」ルートで鎌倉を攻めました。
 →ルートは「ココ」を参照。
 また、京都では、足利尊氏が六波羅探題を攻めました。
 そして、1333年、各地での激戦の末、ついに鎌倉幕府は幕を下ろしました。

新田義貞の主な足跡
乱橋
(みだればし) 
 材木座の水道路交差点から海の方へ少し行ったところに架かる。濫橋とも書く。
 新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め入った時、北条幕府軍の防御線がくずれはじめたのがこの橋の辺りだったことから、乱橋と呼ばれるようになったといわれています。 
仮粧坂
(けわいざか) 
 藤沢を経て武蔵方面に通じる、戦略上きわめて重要な拠点であり、新田義貞が鎌倉攻めの際に、この仮粧坂に軍の主力を向け、激戦地となりました。
貝吹地蔵 瑞泉寺の裏山にあり、新田義貞の鎌倉攻めの際、自害した北条氏最後の得宗の首を新田勢に渡すまいと持って逃げた家来を、貝を吹いて導いたというお地蔵さまです。
小動神社
(こゆるぎじんじゃ)
 新田義貞は、鎌倉攻めの際に戦勝祈願し、後に社殿を再興しました。
九品寺
(くほんじ)
 1336年創建。新田義貞は、北条方の戦死者を弔うため、材木座にある鎌倉攻めの折の本陣跡に九品寺を建立しました。


稲村ヶ崎の史蹟と龍神伝説
「稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」の石碑
 新田義貞徒渉の石碑.JPG
 『太平記』によれば、新田義貞は稲村ヶ崎に来たが、鎌倉につづく道は狭く、波打ち際には逆茂木が並べられ、沖合には数百隻もの北条軍の船がおり、とても突破できるような状況ではなかった。
 義貞は腰に差していた黄金造りの太刀を抜いて海中に投げ込み、海に向かって「わが軍のために道を開き給え」と「龍神」に祈ったという。
 その夜、潮が引き、北条軍の船も遥か遠くへ行ってしまい、貞義の軍勢は干潟を渡り、鎌倉へ攻め込んだということです。

稲村ヶ崎駅から極楽寺方面へ向かう道筋に、「十一人塚」の石碑が建てられています
 鎌倉攻めの際に討死した、新田義貞軍の浜手の大将大舘宗氏(おおだちむねうじ)以下の十一人の霊を弔った塚。
 新田義貞軍の大舘宗氏は、極楽寺切通へ攻め入ったが、北条氏側に反撃され、稲瀬川で討死し、そして、宗氏以下の十一人も自刃したということです。
 葬られた場所に十一面観音像が建てられ、霊を弔ったので「十一人塚」と呼ばれるようになり、石碑や塔婆が建てられたとのことです。
 十一人塚.JPG

洲崎古戦場
湘南モノレールの湘南深沢駅近くにある、新田軍と北条軍の激戦地「洲崎古戦場」の碑
 洲崎古戦場石碑.JPG

「洲崎古戦場」の碑の近くに建つ宝篋印塔「泣塔」
 塔の銘には、「文和5年(1356年)」とあります。洲崎での戦いの戦没者の供養塔です。
 一時、手広の青蓮寺に移されたが、毎晩、元の場所を恋しがるようにすすり泣く声がするため戻され、その後、泣き声は止まったといいます。
 泣塔.JPG

東勝寺跡
 開山は栄西の弟子、退耕行勇とされ、開基は北条泰時といわれるが、創建の時期など詳細は不明。
 新田義貞の鎌倉攻めで敗退した北条一門がここに火を放ち、14代執権北条高時以下、一族ら283人、総勢、約870人が自害したといわれます。
 東勝寺は全焼し、その後、寺は再建されて復興しましたが、やがて廃寺となりました。
 手前に流れる滑川はおそらく濠の代わりとなり、城郭としての意味をもつ寺であったということです。
 東勝寺跡.JPG

腹切りやぐら
 宝戒寺後方の屏風山と小富士山に囲まれた葛西ヶ谷の奥、東勝寺跡内にあり、衹園山ハイキングコースの登山口にあります。
 新田義貞の鎌倉攻めで自刃した北条高時はじめ、北条一族の屍を葬ったとされるが、実際の埋葬地は釈迦堂ヶ谷奥やぐら群と推定されています。
 腹切りやぐら.JPG

 
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2017年07月26日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1331年5月5日)を読む(20)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「元弘の変」です。
(33)元弘元年(1331)5月5日
 吉田定房の密告により、再度、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚した。元弘の変である。
 後醍醐天皇は御所を脱出するが捕えられ、翌年、隠岐に配流となる。
 日野俊基も、葛原ヶ岡で処刑され、日野資朝も配流先の佐渡で処刑される。

吉田定房(1274〜1338年)
 鎌倉後期〜南北朝時代の公卿。後宇多天皇・後醍醐天皇の信任が厚かった人です。
 「元弘の変」では幕府に事前に通報したが、鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においても後醍醐天皇に重用されました。

 北畠親房、万里小路宣房と合わせて「後の三房」と呼ばれました。
 ※「万里小路宣房」は、「正中の変」でも登場していました。
  →「鎌倉検定−蒙古の襲来(1324年9月23日)を読む(18)」参照。

日野俊基の墓
 俊基は後醍醐天皇に仕えた公家で、討幕計画に参加したかどで、1332年、葛原ヶ岡で斬首されました。
 処刑の直前に俊基は歌を詠みました。
  「秋をまたで 葛原岡に消ゆる身の 露のうらみや 世に残るらん

「日野俊基の墓」の場所は、葛原岡神社の社殿とは少し離れています
日野俊基の墓の場所.JPG

「史跡 日野俊基墓」と書かれた石柱の奥に墓があります
 日野俊基の墓全景.JPG

 日野俊基の墓所の石碑.JPG

 日野俊基の墓.JPG

葛原岡神社(梶原)
 1887年(明治20)創建。由比ヶ浜の鎮守。祭神は、文章博士の「日野俊基」。
 後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した「日野俊基」を祀っています。
 明治天皇は、「日野俊基」に明治維新の先駆けとして深い思いを寄せ、明治20年、俊基の最期の地に社殿を造営しました。

社殿
 葛原岡神社.JPG

 葛原岡神社社殿.JPG

説明版
葛原岡神社説明版.JPG

「俊基卿終焉之地」の石碑が、社殿の左側にあります
 日野俊基終焉の地石碑1.JPG

 日野俊基終焉の地石碑2.JPG

 
posted by トシ999 at 15:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする