2017年08月29日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1352年正月5日)を読む(6)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「足利直義の死去」です。
G文和元・正平7年(1352)正月5日
 足利尊氏が相模早河尻(小田原市)の戦いで直義を破り、この日、直義と和睦して鎌倉に入る。2月26日、直義が浄妙寺西北の延福寺で急逝する。
 直義の死で、尊氏と直義の対立には終止符がうたれたが、閏2月には、幕府と南朝との講和が破れ、新田義宗(義貞の子)と兄義興が宗良親王(後醍醐天皇皇子)を奉じて上野に挙兵する。南朝軍は同18日に鎌倉を攻略し、尊氏を武蔵狩野川(横浜市)へと敗走させる。
 しかしその後、尊氏は諸戦で勝利を重ね、3月12日に鎌倉を奪回する。

 ※鎌倉幕府滅亡の後、足利尊氏と何度も対立した「足利直義」は、ついに死去しました。

稲荷山浄妙寺
本堂
 臨済宗。鎌倉五山第五位。開基は足利義兼。開山は退耕行勇。
 足利義兼は、足利氏の祖である「足利義康」の子。1180年に源頼朝が伊豆国で挙兵すると、頼朝に従いました。
 浄妙寺本堂.JPG
 ※このお寺につては、「鎌倉浄明寺のお寺を見る(稲荷山)」を参照。

本堂背後の墓地には、中興開基の「足利貞氏の墓」があります
  「足利義兼」―義氏―泰氏―頼氏―家時―「足利貞氏」―尊氏  

 足利貞氏の墓.JPG

石窯ガーデンテラス付近の小路にある「足利直義の墓」
 この辺りは、かつて開基を足利直義とする大休寺足利直義邸があった所です。
 石窯ガーデンテラスの脇の小路を奥の方へ入って行くと、「足利直義の墓」といわれる宝篋印塔があります。
 足利直義の墓.JPG

熊野神社
浄妙寺境内外の西隣りにあり、浄明寺地区の鎮守である熊野神社の入り口
 熊野神社鳥居.JPG

<長い階段を上ると本殿があります
 境内には、延福寺(廃寺)や足利直義の屋敷があったということです。
 熊野神社本殿.JPG

浄光明寺の「矢拾地蔵」
 足利直義の守り本尊「矢拾地蔵」は、「収蔵庫」に安置されています。
 浄光明寺の地蔵菩薩立像は、戦いの中で足利直義のために矢を拾い集めた、という伝承があります。(「矢拾地蔵」)
 撮影禁止のため、写真はありません。

 
posted by トシ999 at 12:58| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月28日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1350年12月25日)を読む(5)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「観応の擾乱(じょうらん)」です。
E観応元年・正平5年(1350)12月25日
 足利基氏が高師冬に擁されて鎌倉を発つ。前年来、高師直と足利直義との対立を端緒として勃発した動乱が全国的に拡大し(観応の擾乱)、師直・足利尊氏・同義詮と、直義との間で全面的な武力衝突を見るに至り、鎌倉でも師直派の高師冬と直義派の上杉憲顕が争った。
 憲顕が上野に奔って挙兵すると、師冬は足利基氏を擁して対抗したが、26日に基氏の身柄を憲顕方に奪われ敗北した。
 29日、基氏は憲顕とともに鎌倉へ戻る。

高師冬(?〜1351年)
 高師行の子で、高師直の従兄弟にあたります(後に師直の養子となりました)。
 師直と同じく足利尊氏に仕えました。

「観応の擾乱」の対立の構図
高師直←――――×――――→足利直義

 高師直・足利尊氏・義詮←―×―→足利直義
 
 高師冬(高師直派)←――×――→上杉憲顕(足利直義派)  

上杉憲顕(1306〜1368年)
 山内上杉氏の始祖。足利尊氏とは従兄弟の関係。
 尊氏の命によって鎌倉府の執事を務めました。

 「観応の擾乱」によって尊氏と対立し、一時地位を追われるが、尊氏の死後(1358年)、義詮・基氏兄弟の後援により、「関東管領」に任ぜられることになります。
・1363年、足利基氏の要請で上杉憲顕が幕政に復帰し、関東管領として再び鎌倉公方を補佐する。
・以後、関東管領の職は上杉氏の家系に独占して伝えられた。 

足利尊氏と上杉憲顕の系図
 足利尊氏と上杉憲顕の系図.jpg

 
posted by トシ999 at 13:11| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月24日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1349年10月3日)を読む(4)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「鎌倉公方の始まり」です。
D貞和5・正平4年(1349)10月3日
 足利氏による関東支配のために鎌倉に置かれていた足利義詮が京都に向けて出発し、22日入京する。
 高師直との軋轢の末に、足利直義は義詮に政務を譲り出家する。
 義詮と入れ替わりに、その弟基氏が鎌倉に下り(鎌倉公方の始)、関東執事として義詮の補佐をしていた上杉憲顕・高師冬が引き続き基氏を支え、義詮以来の鎌倉府の体制を固める。

鎌倉府とは?
 室町幕府が鎌倉に置いた統治機構。
 足利尊氏は、鎌倉に義詮のあとに基氏を置いて初代「鎌倉公方」とし、関東管領・評定衆・引付衆・諸奉行を設置し、関東8ヵ国に伊豆・甲斐を加えた10ヵ国を管轄させました。
 ※関東管領:鎌倉公方の補佐役

「鎌倉公方」の屋敷跡の石碑(浄明寺)
足利公方邸旧蹟.JPGここに足利義兼の家があり、その子孫が代々住みました。

足利基氏」が「鎌倉公方」として、指揮をこの家からとりました。

1455年、4代鎌倉公方足利持氏の子、成氏が関東管領上杉憲忠との不和が原因で下総古河に移ったことにより、ついに廃墟となってしまったということです。

足利基氏(1340〜1367年)
 足利尊氏の子。1349年、10歳で初代鎌倉公方となりました。
 瑞泉院を中興し、「瑞泉寺」を建て、以後、鎌倉公方代々の菩提寺としました。

名勝 瑞泉寺庭園
 瑞泉寺庭園.JPG
 ※このお寺については、「鎌倉二階堂のお寺を見る(錦屏山)」を参照。

高師直(こうのもろなお)(?〜1351年)
 足利尊氏の執事。
 足利直義と反目を深め、1351年に一族もろとも武庫川で討たれました。
 これで、「足利尊氏・義詮父子」と「足利直義」との間では一時的に和平が結ばれましたが、再び対立しました。

足利尊氏・義詮・基氏・直義の系図
 足利尊氏・義詮・基氏・直義の系図.jpg
 
posted by トシ999 at 16:07| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする