2017年08月11日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1335年7月25日)を読む(2)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「中先代の乱」です。
A建武2年(1335)7月25日
 北条高時の遺児時行が信濃国で反乱を起こし(中先代の乱)、武蔵女影原(埼玉県日高市)・小手指原(埼玉県所沢市)・府中(東京都府中市)の諸戦で足利軍を撃破して、この日鎌倉に入る。
 これより先22日に、足利直義は成良親王・足利義詮(尊氏の嫡子)とともに鎌倉を出て、東海道を西へ敗走する。直義はこの時、護良親王を殺させている。
 足利尊氏は後醍醐天皇の許可を待たず京都を発ち、東下して時行軍と戦い、8月19日に鎌倉を奪回する。

北条時行(? 〜1353年)
 鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の次男。
 1333年に北条氏が滅亡した際、幼子だった彼は脱出に成功し、御内人である信濃の諏訪氏の下で養育されました。

・時行は、北条氏復興のため「中先代の乱」を引き起こし、足利直義軍を打ち破り、一時鎌倉を奪還したが、足利尊氏に奪回されました。
・その後、南朝に属して北畠顕家・新田義興らに従い、再度鎌倉を占領したが、1353年、足利氏に捕えられ殺害されました。

「中先代」とは
 「先代」(鎌倉幕府執権の北条氏)と、「後代」(室町幕府を開いた足利氏)の中間にあたることからそう呼ばれたということです。
 また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、「二十日先代(はつかせんだい)」とも呼ばれています。

護良親王の最期
 足利尊氏と対立した護良親王は、鎌倉二階堂の「東光寺」に幽閉されました。
 そして、「中先代の乱」の混乱の中で、尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって殺害されました。

宮内庁管理の「護良親王の墓」
 二階堂の永福寺跡の近くに、あります。
 護良親王の墓入口.JPG

 護良親王の墓.JPG

「護良親王の墓」の入口そばには、「理智光寺址」の石碑があります
理智光寺址.JPG
この場所は、僧の願行上人(がんこうしょうにん)が開いた五峯山理智光寺の跡です。

1335年に「淵辺義博」は、「足利直義」の命令で、「護良親王」を殺害しましたが、その死に顔のすごさに怖れ、首をかたわらの藪の中に捨てました。

それを当時の僧侶が拾って、山の上に埋葬したということです。

大町の「妙法寺」にもある「護良親王の墓」
 「日叡」が「護良親王」と「南の方」との子どもだといわれており、その日叡が亡き父、護良親王の菩提を弔い、「妙法寺」を再興したということです。
 妙法寺護良親王の墓.JPG

護良親王の系図
 護良親王系図.jpg

 
posted by トシ999 at 11:39| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする