2020年10月31日

鎌倉の景観重要建築物等−笹野邸(佐助)

鎌倉検定公式テキストブックに記載されている「芸術・文化」章の中から、「鎌倉の景観重要建築物等」について、解説していきます。

今回は「笹野邸(佐助)」です。
 ※全体については、「鎌倉の景観重要建築物等のまとめ(改訂版) 2020.10」を参照。

笹野邸(佐助):指定第20号 平成13年1月1日
<鎌倉市HPより>
 緑に囲まれた閑静な住宅地に建つ規模の大きな和風住宅です。
 下見板張りの外壁、緑しょうの吹いた銅板葺きの屋根、背の高い外観は近代の邸宅として大変存在感があります。
 また、広い敷地には多くの樹木が茂り、建物とともに魅力的な空間を創り出しています。
 ※公開はしていません。

 ※この邸宅を使用して、結婚式やパーティーなど、いろいろな催しが行われています。

笹野邸の入口に置かれた「説明板」
 笹野邸説明板_R.JPG

笹野邸の外観:鎌倉市HPから
 ・1928年(昭和3)以前の建築。
 ・非公開のため、建物は外からは見えません。
 笹野邸.jpg



※「景観重要建築物等」とは
・鎌倉市は、鎌倉の保養別荘地時代の風情をしのばせる洋風や和洋折衷の建築物、和風商家などを、「景観重要建築物等」と指定し、保存活用を支援・保護する制度を設け、古都鎌倉の独特の町並みを保存しています。
 (現在、全33件)


 
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2020年10月29日

鎌倉の景観重要建築物等−旅館対僊閣(長谷)

鎌倉検定公式テキストブックに記載されている「芸術・文化」章の中から、「鎌倉の景観重要建築物等」について、解説していきます。

今回は「旅館対僊閣(長谷)」です。
 ※全体については、「鎌倉の景観重要建築物等のまとめ(改訂版) 2020.10」を参照。

旅館対僊閣(長谷):指定第19号 平成12年10月1日
<鎌倉市HPより>
 長谷寺の参道にあって戦前の和風旅館としての佇まいをよく残している建物として貴重な存在です。
 特に参道に面した建物正面の外観は特徴的で、2階部分には社寺建築などに見られる高欄(こうらん)が設けられ、これを支える持ち送り板や2階窓の上部に設けられた欄間窓(らんままど)などが独特の風格を醸しだしています。

旅館対僊閣の外観
 ・竣工は1927年(昭和2)で、1937年(昭和12)には現在の形に改造。
 ・旅館業を営み始めたのは明治末期のことで、関東大震災で倒壊し、その後に建てられ
  たのが現在の建物。
 参道の対僊閣_R.JPG

 対僊閣_R.JPG



※「景観重要建築物等」とは
・鎌倉市は、鎌倉の保養別荘地時代の風情をしのばせる洋風や和洋折衷の建築物、和風商家などを、「景観重要建築物等」と指定し、保存活用を支援・保護する制度を設け、古都鎌倉の独特の町並みを保存しています。
 (現在、全33件)



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2020年10月26日

源頼朝の墓を訪れる 2020.10

久しぶりに鎌倉西御門にある「源頼朝の墓」を訪れてみました。

源頼朝(1147〜1199年)
 ・53歳で死去後、自身の持仏堂であった法華堂に祀られ、墓所として信仰されました。
  ※功績については、「鎌倉ゆかりの人物―源頼朝のあれこれ」を参照。

源頼朝の墓(西御門)
 ・「源頼朝の墓」は、江戸時代に頼朝の子孫と称した薩摩藩主・島津重豪が建てたもの
  で、この辺りが法華堂跡とされ、もとは頼朝の持仏堂でした。
「源頼朝の墓」へ通じる53段の階段下にある「源頼朝の墓の案内板」
 源頼朝墓案内板_R.JPG

島津重豪が建てた多層塔の「源頼朝の墓」
 ・墓は、同じ石を何層にも重ね、その上に相輪を立てた形をしています。
 源頼朝の墓1_R.JPG

 源頼朝の墓2_R.JPG

墓がある平場に立つ「法華堂跡の説明板」
 ・この平場は、源頼朝の「法華堂(墳墓堂)」が建っていた跡です。
 史跡法華堂跡_R.JPG

 法華堂跡説明板_R.JPG

墓の隣に置かれた「希義公の土と石の説明板」と「土と石」
 ・「頼朝」と弟「希義」の墓所の土と石を交換し、再会を実現させたもの。
 希義公の土と石の説明板_R.JPG

 希義公の土と石_R.JPG

「方丈記」の作者、鴨長明(1155年〜1216年)の鎌倉訪問
・1211年、飛鳥井雅経(あすかいまさつね)の供として鎌倉に下向してきて、3代将軍源実朝と面談しました。
・鴨長明が鎌倉に下向してきた日は、源頼朝の命日なので、頼朝の墳墓堂である法華堂にお参りしました。
 読経が終わった後、鴨長明は、下の和歌を詠んだといいます。

 「草も木も 靡きし秋の 霜消えて 空しき苔を 払う山風
  →草木もなびくほどの権力を持っていた源頼朝も、秋の霜のように消えてしまい、今では墓の苔に、むなしく風が吹きぬけてゆく。

・江戸時代、林羅山も「源頼朝の墓」を訪れて、鴨長明のこの歌を想いました。

 ※飛鳥井雅経とは
・鎌倉幕府政所別当・大江広元の娘を妻とし、蹴鞠の名手としても歌人としても知られています。
・「参議雅経」の名で、百人一首にも歌が採られています。
 「みよしのの やまのあきかぜ さよふけて
   ふるさとさむく ころもうつなり」
  →吉野の山から秋風が吹き降ろし、夜更けの古都の里の寒々としたなか、衣を柔らかくするために打つ音が聴こえてきます。

白旗神社(西御門)
・祭神は源頼朝。古くは頼朝を祀る法華堂がありました。
・『吾妻鏡』によると法華堂の創建は1189年。鎌倉幕府の保護も厚く、崇敬されました。
・江戸時代には、鶴岡八幡宮の供僧相承院が兼務。明治の神仏分離で、堂は廃され、1872年、「白旗神社」となりました。境内は国指定史跡。
・4月13日に源頼朝公墓前祭が行われます。

「源頼朝の墓」へ向かう階段下に建つ「白旗神社」
 白旗神社1_R.JPG

 白旗神社2_R.JPG

「白旗神社」の由緒記
 白旗神社由緒記_R.JPG

白旗神社前に建っている「法華堂跡」の石碑
 ・宝治合戦で、幕府の重臣だった三浦泰村の一族は北条時頼に敗れ、500人あまりが
  法華堂で自害しました。
 法華堂跡石碑_R.JPG
・堂はもと頼朝の持仏を祀っていましたが、頼朝の死後その廟所になりました。
・建暦三年(1213年)5月、和田義盛が、反乱を起こし、火を幕府に放った時、将軍実朝が避難したのがこの場所です。
・宝治元年(1247年)6月5日、三浦泰村がここにこもり、北条軍を迎え撃ったが、刀折れ矢尽きて一族郎党500人ばかり自殺し、庭一面を赤黒色に染めた場所でもあります。

鎌倉ものがたり:西御門
 ・西御門は、かつて源頼朝が御所を建てた「大蔵」の地の西側に位置しています。
 鎌倉ものがたり西御門_R.JPG

 
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