2020年11月11日

鎌倉の景観重要建築物等−檑亭(鎌倉山)

鎌倉検定公式テキストブックに記載されている「芸術・文化」章の中から、「鎌倉の景観重要建築物等」について、解説していきます。

今回は「檑亭(鎌倉山)」です。
 ※全体については、「鎌倉の景観重要建築物等のまとめ(改訂版) 2020.10」を参照。

檑亭(鎌倉山):指定第24号 平成15年3月31日
<鎌倉市HPより>
 檑亭は鎌倉山が住宅地として開発された当時の歴史を今に伝える貴重な建物です。
 本館は、横浜の農家を移築したもので、玄関は手広の青蓮寺、山門は西御門にあった高松寺からの移築によるものです。
 建物内部は、太い梁を交差させた天井、ステンドグラス、暖炉、古道具を用いた家具・照明器具など、和洋折衷の特異な空間が創り出されています。

檑亭の説明板
 檑亭説明板_R.JPG

「檑亭山門」の説明板と外観
 ・山門は、西御門にあった「高松寺」からの移築によるもの。
  ※「高松寺」は、鎌倉尼五山第一位であった「太平寺」跡に建てられた尼寺。
 檑亭山門説明板_R.JPG

 檑亭山門_R.JPG

「檑亭本館」の外観:鎌倉市HPから
 ・1929年(昭和4)建築。
 ・本館は、大正関東地震で倒壊した横浜の養蚕農家を移築したもの。
 ・玄関は、手広の「青蓮寺」からの移築によるもの。
 ・現在は、そば処の和風レストランとして営業しています。
 檑亭本館.jpg



※「景観重要建築物等」とは
・鎌倉市は、鎌倉の保養別荘地時代の風情をしのばせる洋風や和洋折衷の建築物、和風商家などを、「景観重要建築物等」と指定し、保存活用を支援・保護する制度を設け、古都鎌倉の独特の町並みを保存しています。
 (現在、全33件)


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2020年11月08日

鎌倉の景観重要建築物等−東勝寺橋(小町)

鎌倉検定公式テキストブックに記載されている「芸術・文化」章の中から、「鎌倉の景観重要建築物等」について、解説していきます。

今回は「東勝寺橋(小町)」です。
 ※全体については、「鎌倉の景観重要建築物等のまとめ(改訂版) 2020.10」を参照。

東勝寺橋(小町):指定第23号 平成14年4月1日
<鎌倉市HPより>
 東勝寺橋は、大正13年に建造されたアーチ橋です。関東大震災の復興期には、このようなアーチ橋が多く建造されましたが、そのほとんどが撤去された今日、当時の姿を保つ東勝寺橋は希少なものです。
 虹のような弧を描く東勝寺橋の姿は、周囲の緑や滑川の川面と見事に調和し、美しい渓谷風景の一部となっています。また、青砥藤綱の伝説や北条一族の滅亡など、中世の歴史が息づく場所でもあります。

東勝寺橋の説明板
 東勝寺橋説明板_R.JPG

東勝寺橋の外観
 ・1924年(大正13)建造。
 東勝寺橋_R.JPG

 ・「宝戒寺橋」と、そこから望む「東勝寺橋」のアーチ橋の外観
 宝戒寺橋_R.JPG

 アーチ橋東勝寺橋_R.JPG

青砥藤綱の伝説:東勝寺橋の傍にある「青砥藤綱旧蹟」の石碑
青砥藤綱旧蹟石碑_R.JPG太平記によれば、藤綱は北条時宗、貞時の二代に仕えて引付衆の役に連なった人物であるといわれています。
ある夜の出仕の際、誤って銭十文を滑川に落したので、五十文の松明を買って水の中を照らしてお金を探し、ついにそのお金を探し出しました。時に人々は小利大損と嘲け笑いました。
しかし藤綱は、「十文は小さいが、これを無くすことは天下の財産を無くすことである。五十文は自分の損であってもが、人々の為になったのである。」と諭しました。
この物語は、この辺りであったことと伝えられています。

北条一族の滅亡:東勝寺跡
 ・1333年、北条高時は、東勝寺で一族郎党と共に自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。
 東勝寺跡_R.JPG

 ※「「太平記」から鎌倉幕府滅亡の歴史を振り返る(巻10)」を参照。



※「景観重要建築物等」とは
・鎌倉市は、鎌倉の保養別荘地時代の風情をしのばせる洋風や和洋折衷の建築物、和風商家などを、「景観重要建築物等」と指定し、保存活用を支援・保護する制度を設け、古都鎌倉の独特の町並みを保存しています。
 (現在、全33件)


 
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2020年11月07日

鎌倉稲村ヶ崎から極楽寺方面への史跡を見る 2020.11

江ノ電「稲村ヶ崎駅」から「極楽寺駅」方面へ行くと、いくつかの史跡に出会います。

稲村ヶ崎から極楽寺方面への道沿いの史跡
4つの史跡の場所
 稲村ヶ崎から極楽寺の地図.jpg

新田義貞の鎌倉攻めでの戦没者の「十一人塚」(稲村ヶ崎)
・1333年の鎌倉攻めの際、新田義貞軍の浜手の大将大舘宗氏(おおだちむねうじ)は、極楽寺切通へ攻め入りました。
・しかし、鎌倉側に反撃され、稲瀬川で宗氏以下、十一人が討死にしました。
・葬られた場所に十一面観音像が建てられ、霊を弔ったので「十一人塚」と呼ばれ、その地には石碑や塔婆が建てられました。

 十一人塚_R.JPG

 十一人塚石塔_R.JPG

 十一人塚説明板_R.JPG

 ※「鎌倉ゆかりの人物―大舘宗氏のあれこれ」を参照。

「南無妙法蓮華経」と記された「日蓮袈裟掛松」の石塔(稲村ヶ崎)
・1271年、『立正安国論』を著して幕府に捕えられた日蓮は、龍ノ口刑場へ連れられて行く途中、袈裟を血で汚すのはおそれ多いと松の下枝に掛けたといわれています。
・当時の松は枯れ、何度も植え替えられました。

 日蓮袈裟掛松_R.JPG

 日蓮袈裟掛松石塔_R.JPG

鎌倉十橋の一つ「針磨橋(はりすりばし)」(極楽寺)
・別名、「我入道橋」ともいいます。
・極楽寺川に架かる橋で、その名の由来は、昔、辺りに針金を磨いて針を作る老婆が住んでいたことにあるとも、近くに我入道という僧侶がいたからともいいます。

 針磨橋1_R.JPG

 針磨橋2_R.JPG

 ・以前には、石碑がありましたが、周りの環境が変わりこんな看板になっています。
 針磨橋説明板_R.JPG

 ※「鎌倉十橋の一つ「我入道橋」のこと―(2019年鎌倉検定2級の問題から)」を参照。

阿仏尼邸跡:「阿仏尼邸旧蹟の石碑」(極楽寺)
・江ノ電極楽寺駅を海の方へ向かった右手奥にあります。
・阿仏尼は藤原定家の子である為家の側室。
 為家の死後、実子為相とその兄との間に所領相続問題が生じ、北条時宗に正統性を訴えるために、1277年、今日から鎌倉に下りました。
 『十六夜日記』はその旅の日記であり、鎌倉滞在記。4年間、月影ヶ谷に住んだといわれます。
・帰京し没したという説もあるが、碑にはこの地で没すとあります。

 ・石碑が、江ノ電踏切脇に建っています。
 阿仏尼邸跡_R.JPG

 阿仏尼邸旧蹟石碑_R.JPG

 ※「鎌倉ゆかりの人物―阿仏尼と冷泉為相のあれこれ」を参照。

江ノ電「極楽寺駅」に到着
 極楽寺駅案内板_R.JPG

 
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