
◎稲村ヶ崎から極楽寺方面への道沿いの史跡
<4つの史跡の場所>

<新田義貞の鎌倉攻めでの戦没者の「十一人塚」(稲村ヶ崎)>
・1333年の鎌倉攻めの際、新田義貞軍の浜手の大将大舘宗氏(おおだちむねうじ)は、極楽寺切通へ攻め入りました。 ・しかし、鎌倉側に反撃され、稲瀬川で宗氏以下、十一人が討死にしました。 ・葬られた場所に十一面観音像が建てられ、霊を弔ったので「十一人塚」と呼ばれ、その地には石碑や塔婆が建てられました。 |
※「鎌倉ゆかりの人物―大舘宗氏のあれこれ」を参照。
<「南無妙法蓮華経」と記された「日蓮袈裟掛松」の石塔(稲村ヶ崎)>
・1271年、『立正安国論』を著して幕府に捕えられた日蓮は、龍ノ口刑場へ連れられて行く途中、袈裟を血で汚すのはおそれ多いと松の下枝に掛けたといわれています。 ・当時の松は枯れ、何度も植え替えられました。 |
<鎌倉十橋の一つ「針磨橋(はりすりばし)」(極楽寺)>
・別名、「我入道橋」ともいいます。 ・極楽寺川に架かる橋で、その名の由来は、昔、辺りに針金を磨いて針を作る老婆が住んでいたことにあるとも、近くに我入道という僧侶がいたからともいいます。 |
・以前には、石碑がありましたが、周りの環境が変わりこんな看板になっています。
※「鎌倉十橋の一つ「我入道橋」のこと―(2019年鎌倉検定2級の問題から)」を参照。
<阿仏尼邸跡:「阿仏尼邸旧蹟の石碑」(極楽寺)>
・江ノ電極楽寺駅を海の方へ向かった右手奥にあります。 ・阿仏尼は藤原定家の子である為家の側室。 為家の死後、実子為相とその兄との間に所領相続問題が生じ、北条時宗に正統性を訴えるために、1277年、今日から鎌倉に下りました。 『十六夜日記』はその旅の日記であり、鎌倉滞在記。4年間、月影ヶ谷に住んだといわれます。 ・帰京し没したという説もあるが、碑にはこの地で没すとあります。 |
・石碑が、江ノ電踏切脇に建っています。
※「鎌倉ゆかりの人物―阿仏尼と冷泉為相のあれこれ」を参照。
<江ノ電「極楽寺駅」に到着>