2020年11月08日

鎌倉の景観重要建築物等−東勝寺橋(小町)

鎌倉検定公式テキストブックに記載されている「芸術・文化」章の中から、「鎌倉の景観重要建築物等」について、解説していきます。

今回は「東勝寺橋(小町)」です。
 ※全体については、「鎌倉の景観重要建築物等のまとめ(改訂版) 2020.10」を参照。

東勝寺橋(小町):指定第23号 平成14年4月1日
<鎌倉市HPより>
 東勝寺橋は、大正13年に建造されたアーチ橋です。関東大震災の復興期には、このようなアーチ橋が多く建造されましたが、そのほとんどが撤去された今日、当時の姿を保つ東勝寺橋は希少なものです。
 虹のような弧を描く東勝寺橋の姿は、周囲の緑や滑川の川面と見事に調和し、美しい渓谷風景の一部となっています。また、青砥藤綱の伝説や北条一族の滅亡など、中世の歴史が息づく場所でもあります。

東勝寺橋の説明板
 東勝寺橋説明板_R.JPG

東勝寺橋の外観
 ・1924年(大正13)建造。
 東勝寺橋_R.JPG

 ・「宝戒寺橋」と、そこから望む「東勝寺橋」のアーチ橋の外観
 宝戒寺橋_R.JPG

 アーチ橋東勝寺橋_R.JPG

青砥藤綱の伝説:東勝寺橋の傍にある「青砥藤綱旧蹟」の石碑
青砥藤綱旧蹟石碑_R.JPG太平記によれば、藤綱は北条時宗、貞時の二代に仕えて引付衆の役に連なった人物であるといわれています。
ある夜の出仕の際、誤って銭十文を滑川に落したので、五十文の松明を買って水の中を照らしてお金を探し、ついにそのお金を探し出しました。時に人々は小利大損と嘲け笑いました。
しかし藤綱は、「十文は小さいが、これを無くすことは天下の財産を無くすことである。五十文は自分の損であってもが、人々の為になったのである。」と諭しました。
この物語は、この辺りであったことと伝えられています。

北条一族の滅亡:東勝寺跡
 ・1333年、北条高時は、東勝寺で一族郎党と共に自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。
 東勝寺跡_R.JPG

 ※「「太平記」から鎌倉幕府滅亡の歴史を振り返る(巻10)」を参照。



※「景観重要建築物等」とは
・鎌倉市は、鎌倉の保養別荘地時代の風情をしのばせる洋風や和洋折衷の建築物、和風商家などを、「景観重要建築物等」と指定し、保存活用を支援・保護する制度を設け、古都鎌倉の独特の町並みを保存しています。
 (現在、全33件)


 
posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | 芸術・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする