2021年01月29日

鎌倉の歴史のまとめ−鎌倉時代(第2代将軍源頼家)

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。
鎌倉時代は征夷大将軍の時代(全9代)で分けています。

鎌倉時代(第2代将軍源頼家)
 ・1199年、源頼朝の死後、嫡男頼家が18歳で家督を相続しました。
  しかし、実権は北条氏に掌握されていました。
 ・源頼家が正式に征夷大将軍に任じられたのは、1202年のことでした。

源頼家と比企氏の系図
 源頼家と比企氏の系図.jpg

「源頼家」の時代の主な出来事
1199年
源頼家が後継
・源頼朝の死後、嫡男頼家が頼朝の遺跡を相続しました。
・若き後継者頼家には御家人を統率する力量がなく、従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招きました。
1199年
13人の合議制
北条政子が源頼家の訴訟親裁を停止し、宿老13人の合議による裁決としました。
 ※宿老13人:北条時政、北条義時、大江広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政
1200年
梶原景時討伐
・1199年、「梶原景時」は、結城朝光の謀反の疑いを源頼家に讒言したが弾劾にあい、鎌倉追放となりました。
・翌年1200年1月、景時は、三浦義村、和田義盛ら有力御家人たちに追われ、嫡男源太景季をはじめ景時の一族は、駿河国清見関で討たれました。
1200年
壽福寺創建
・「北条政子」は、栄西を招いて壽福寺を開山しました。
・この地一帯は、源頼朝の父義朝の屋敷跡(鎌倉之楯)とされ、三浦義明の弟岡崎義実が義朝供養のために堂を建てていたが、政子は岡崎義実の子土屋義清に依頼してその土地を献上させ、栄西に寄進して壽福寺を建立しました。
1202年
源頼家が征夷大将軍に任命
・7月、「源頼家」は、征夷大将軍に任命されました。
・頼家は、妻の父である「比企能員」との関係を深めたため、北条時政や北条政子と対立しました。
1203年
阿野全成殺害
・「源頼家」は、5月に頼朝の弟阿野全成を謀反の疑いで捕え、6月に殺害しました。全成の妻阿波局は、頼家の弟千幡(実朝)の乳母で、北条政子の妹。
・北条時政が千幡を擁立して、頼家と対立していたためとみられています。
1203年
一幡と千幡の家督分割
・「源頼家」は、8月に病床にあり様態が悪化する中で、関東28か国の地頭職を長子一幡(6歳)に、関西38か国地頭職を弟千幡(12歳、実朝)に譲りました。
・頼家の意向は一幡にすべてを相続させるというものであったが、北条時政らによって阻まれました。北条時政は、一幡の外祖父で有力御家人の比企能員の勢力拡大を恐れていました。
・比企能員は、この分割処置に怒り、頼家に北条時政討伐を訴え、承諾を得ました。
1203年
比企氏の乱
・「北条時政」は、9月に薬師如来像の供養にかこつけて、「比企能員」を自邸に招いて殺害しました。
・さらに、北条氏の軍勢は、頼家の長子一幡の館にたてこもる比企氏一族・郎従らを襲い、比企氏一族は滅ぼされました。
1204年
源頼家暗殺
・「源頼家」は、1203年の「比企氏の乱」の後、将軍職を引退させられ、伊豆修禅寺に幽閉されました。
・1204年7月、頼家は、北条氏の刺客により殺害されました。

鎌倉深沢小学校の裏手にある「梶原景時とその一族の墓」(梶原)
 梶原景時の墓_R.JPG

仏行寺墓地にある梶原源太景季の片腕が埋められているという「源太塚」(笛田)
 源太塚_R.JPG

比企氏の館の跡地に建てられた「妙本寺の総門」と「比企能員邸址」の石碑(大町)
 妙本寺総門_R.JPG

比企能員邸跡石碑_R.JPG能員は頼朝の乳母比企禅尼の養子であり、禅尼と共にこの地に住んでいました。

この地が比企ヶ谷という名があるのもこのためです。 能員の娘は頼家の寵愛を受け、若狭局とよばれて一幡という子供を生みました。

建仁3年(1203)頼家が病になると、母の政子が関西の地頭職を2分して、頼家の弟千幡に授けようとしました。

能員はこれに怒り、密かに北条氏を滅ぼそうと計画しましたが、それが漏れて逆に北条氏により比企一族はこの地で滅ぼされました。

妙本寺境内にある「比企能員一族(比企能員夫妻ら)の墓」(大町)
 比企一族の墓_R.JPG

伊豆に建てられた「源頼家の墓」(静岡県伊豆市修善寺)
 源頼家の墓説明板_R.JPG

 源頼家の墓_R.JPG

 
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2021年01月26日

鎌倉の歴史のまとめ−鎌倉時代(初代将軍源頼朝)

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。
鎌倉時代は、「征夷大将軍の時代」(全9代)で分けています。

鎌倉時代(初代将軍源頼朝)
 ・1180年、後白河法皇の皇子以仁王は、平氏打倒の令旨を発行。
  源行家が諸国の源氏に以仁王の令旨を伝える使者となりました。
 ・伊豆に20年間配流されていた源頼朝は、北条氏に支えられて挙兵しました。

源頼朝挙兵の軌跡
 頼朝挙兵の軌跡.jpg

源頼朝の系図
 源義朝の系図.jpg

「源頼朝」の時代の主な出来事
1180年
石橋山合戦
・「源頼朝」は、8月に伊豆国(蛭ヶ小島)で挙兵し、伊豆の国衙の目代(代官)山木兼隆を倒すが、相模の平家方の武士により、「石橋山合戦」では敗れました。
・この時、平家方の梶原景時の機転で箱根山中で命拾いをし、真鶴から船出し、安房国に逃れ、体制を整えました。
1180年
鶴岡八幡宮の遷移
大倉幕府の創設
・「源頼朝」は、千葉常胤の源氏ゆかりの地鎌倉を根拠地にとの進言により、10月に鎌倉に入り、かつて源頼義が創建した「鶴岡若宮(由比若宮)」を小林郷松ヶ岡に遷しました。
・最初の鎌倉幕府「大倉幕府」は、鶴岡八幡宮の東側、大倉の地(現在の「清泉小学校」付近)に置かれました。
1182年
段葛の造営
・「源頼朝」は、妻政子の安産を願い、鶴岡八幡宮社頭から由比浦まで一直線の参道(若宮大路)を造りました。
・頼朝自身がこれを指揮し、北条時政以下の人々も土石を運んだといいます。
1183年
梶原太刀洗水
・「梶原景時」は、源頼朝の命を受けて、頼朝が幕府を開くにあたり大きな功績のあった「上総介広常」を討ったあと、朝夷奈切通の太刀洗川に沿った岩肌から湧き出る水で、太刀の血のりを洗い流したといわれています。
・上総介広常は、その権力が高まるにつれ、頼朝の目の上のたんこぶとなり、謀反の疑いを掛けられ暗殺されました。
1184年
一ノ谷の合戦
・「源頼朝」は、後白河法皇の要請で木曽義仲を討つ事を決め、後に送った源範頼、義経の軍勢により木曽義仲は討たれました。
・「源範頼、義経」は、一ノ谷の戦いで平氏を破りました。
1184年
問注所の開設
・「源頼朝」は、訴訟を裁許(判決)する「問注所」を設置しました。その近くには、その名に由来する裁許橋(別名「西行橋」)があります。
1185年
壇ノ浦の戦いで平氏滅亡
・「源範頼、義経」は、屋島壇ノ浦で平家を滅亡させました。
・義経の活躍は独断に走ったことで功績を評価されず、頼朝ともしだいに不和となっていきました。
・「源頼朝」は、諸国に守護、地頭を設置しました。
1189年
奥州合戦で藤原氏滅亡
・「源義経」は、兄頼朝に鎌倉入りを拒絶され、藤原秀衡を頼って平泉に逃れていたが、頼朝の圧力を受けた秀衡の子泰衡によって討たれました。
・「源頼朝」は、義経の滅亡についで、本来のねらいである奥州藤原氏を討ち、奥州を平定しました。
 ※奥州藤原氏:「藤原清衡―基衡―秀衡―泰衡」の四代
1192年
源頼朝が征夷大将軍に任命
・「源頼朝」は、1191年に政所を設置し、1192年、征夷大将軍となり、武家政治の基本ができあがりました。
・主君頼朝と御家人との主従の結び付きがさらに図られ、「御恩と奉公」による」幕府御家人制が確立していきました。
1193年
源範頼の伊豆追放
・5月、富士の裾野で曾我十郎・五郎兄弟による父の敵工藤祐経殺害事件が起こった折、「源範頼」は、頼朝も討たれたとの噂に動揺する北条政子を、「私がいるから心配ない」と慰めたことが、謀叛の疑いありとして頼朝の勘気にふれたという。
・源範頼は、頼朝に謀反の汚名を着せられ、伊豆修禅寺に配流となり、暗殺されました。
1199年
源頼朝死去
・1月、「源頼朝」が死去(53歳)。頼家が家督を継ぐ。
・源頼朝は、1198年11月、稲毛重成が亡妻の冥福を祈るために新造した相模川の橋供養に参列したが、その帰路に落馬しました。そのこと、また「飲水重病(重い糖尿病)」などが死因としてあげられています。

清泉小学校付近の四つ角に建っている「大倉幕府旧蹟」の石碑(雪ノ下)
 大倉幕府跡_R.JPG

大倉幕府旧蹟石碑_R.JPG
今から737年前の昔、治承四年(1180年)、源頼朝邸をこの場所に造り、天下の政権を握るようになってからは、この邸宅に於いて政治を行いました。

いわゆるこれが大蔵幕府です。

以来、頼家、実朝を経て、嘉禄元年(1225年)、政子が亡くなり、幕府が宇津宮辻に移るまで、この地が幕府の中心であったのは実に46年間でした。

二の鳥居から見た「段葛」(小町)
 二の鳥居段葛_R.JPG

鎌倉五名水の一つ「梶原太刀洗水」(十二所)
 梶原太刀洗水_R.JPG

御成小学校近くの角に建つ「問注所旧蹟」の石碑(御成町)
問注所旧蹟石碑_R.JPG
元暦元年、源頼朝は、大蔵幕府の建物の東西の庇の所を訴訟の受付、裁断する所とする。これを問注所といった。

問注所には人々が群れ集まって、時には喧騒になることもあった。そこで、二代将軍頼家は、正冶元年、問注所を大蔵幕府の外に遷した。

この地が、即ちその問注所があった所である。

鶴岡八幡宮の東側にある建物に付けられた「鎌倉幕府政所跡」の掲示板(雪ノ下)
 政所跡_R.JPG

伊豆に建てられた「源範頼の墓」(静岡県伊豆市修善寺)
 源範頼の墓_R.JPG

江戸時代、頼朝の子孫と称した薩摩藩主・島津重豪建立の「源頼朝の墓」(西御門)
 源頼朝の墓_R.JPG

 
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2021年01月23日

鎌倉の歴史のまとめ−平安時代(2/2)

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。
平安時代は2回に分けています。

平安時代(後半)
 ・源義家の曽孫「源義朝」が、先祖からの土地である亀ヶ谷(扇ガ谷)に住んでからの
  時代を見てみます。

源義朝の系図
 源義朝の系図.jpg

主な争いの歴史
1144年
大庭御厨への侵入
・「源義朝」は、鎌倉権五郎景政が開発した所領を寄進して伊勢神宮の所領となっていた「大庭御厨」に、「鎌倉之楯」から出発し、三浦氏などと共に乱入しました。
・「鎌倉之楯」は、義朝の死後、三浦大介義明の弟岡崎義実が、義朝供養のために堂を建てた所で、今の壽福寺付近です。
・義朝が大庭御厨に乱入したときの関係文書をまとめたものが『天養記』。
・義朝と三浦大介義明の娘との間に生まれた長男義平は「鎌倉悪源太」と呼ばれたが、「鎌倉」を名乗ることは彼が父義朝に代わり鎌倉を押さえていた証拠。また、武勇に優れ強いという意味で「悪源太」と呼ばれました。
1156年
保元の乱
・後白河天皇と崇徳上皇の対立に、藤原摂関家の内紛が結び付いた争い。
・「源義朝」は、平清盛と共に後白河方として勝利しました。
・「源為朝」は、父・為義と共に崇徳上皇方に付き、兄・義朝は後白河天皇方に付いて、親兄弟分かれて戦いましたが、敗れて伊豆大島へ流され自害しました。
1159年
平治の乱
・「源義朝」と武蔵国の国司藤原信頼は、平清盛と対立し敗北し、義朝、義平、朝長(頼朝の兄)らは死去しました。
・「源頼朝」は池禅尼に助けられて伊豆に流され、「義経」は京都鞍馬寺に預けられました。
・鎌倉地域は源氏の支配地ではなくなり、平家の代官である大庭景親などが相模武士団を指揮統括するようになりました。

源義朝の館、「鎌倉之楯」があった「壽福寺」の総門と参道
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 壽福寺参道_R.JPG

源為朝が流された伊豆大島から鎌倉へ放った矢が落ちたという「六角ノ井」
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源頼朝が父義朝の供養のために創建した「勝長寿院」跡にある「源義朝の墓」
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 源義朝の墓_R.JPG

 
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