
平安時代は2回に分けています。
◎平安時代(前半)
<平安時代に作られた百科辞書「倭名類聚鈔(倭名類聚抄)」による記述>
・平安時代に、鎌倉郡は、次の七つの郷からなっているとされています。
「沼浜、鎌倉、埼立(さきたて)、荏草(えがや)、梶原、尺度(さかど)、大島」
<主な争いの歴史>
1028年 〜1031年 平忠常の乱 | ・「平忠常」は、房総半島で反乱を起こし、朝廷は鎌倉を本拠地とした「平直方」を追討に向かわせたが、鎮圧できず、戦いは3年にも及びました。 ・朝廷は、改めて河内源氏の「源頼信・頼義」父子を派遣し、忠常は源頼信の家臣であったので降伏しました。 ・平直方は、頼義の武芸を認めて娘を与え、鎌倉の屋敷を譲り、自身は伊豆に移り、北条氏の祖となりました。 |
1051年 〜1062年 前九年合戦 | ・「源頼義」は、朝廷から派遣され、朝廷に逆らった陸奥の豪族安倍氏を滅ぼしました。 ・1063年、その帰途に相模守として鎌倉由比郷に岩清水八幡を勧請し、「由比若宮」を建立しました。 ・1081年、頼義の子義家は、この由比若宮を修理しました。 |
1083年 〜1087年 後三年合戦 | ・陸奥守となった「源義家」は、鎮守府将軍清原武則一族の内紛に介入し、清原氏を滅ぼしました。 ・朝廷はこの合戦を私闘とみなし、恩賞を出さなかったので、義家は自分の土地を従軍した武士たちに分け与えました。 (後に主人(源家)への「御恩と奉公」が生まれる基礎) ・『奥州後三年記』によると、「鎌倉権五郎景政(正)」の目に刺さった矢を、三浦平太為次(継)が彼の顔を踏んで抜こうとしたので、景政が刀で為次を突こうとしたという。 |
<壽福寺前に建つ「源氏山」の石碑>
源頼義・義家父子が奥州征伐に行く時、この山に旗を立てたことにより、旗立山ともいいました。
山の麓の寿福寺境内付近は、昔から源氏代々の邸宅であった地と伝えられています。
源氏山の名称はそのことに起因するかも知れません。
旗竿を建てたと伝えられる跡が今なお残っています。
<源頼義が創建した「由比若宮(元八幡)」の鳥居と、社殿>
<祭神が鎌倉権五郎景政(正)の「御霊神社」(坂ノ下)」と、「景正公 弓立の松」>