2021年01月20日

鎌倉の歴史のまとめ−平安時代(1/2)

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。
平安時代は2回に分けています。

平安時代(前半)
平安時代に作られた百科辞書「倭名類聚鈔(倭名類聚抄)」による記述
 ・平安時代に、鎌倉郡は、次の七つの郷からなっているとされています。
 「沼浜、鎌倉、埼立(さきたて)、荏草(えがや)、梶原、尺度(さかど)、大島」

主な争いの歴史
1028年
〜1031年
平忠常の乱
・「平忠常」は、房総半島で反乱を起こし、朝廷は鎌倉を本拠地とした「平直方」を追討に向かわせたが、鎮圧できず、戦いは3年にも及びました。
・朝廷は、改めて河内源氏の「源頼信・頼義」父子を派遣し、忠常は源頼信の家臣であったので降伏しました。
・平直方は、頼義の武芸を認めて娘を与え、鎌倉の屋敷を譲り、自身は伊豆に移り、北条氏の祖となりました。
1051年
〜1062年
前九年合戦
・「源頼義」は、朝廷から派遣され、朝廷に逆らった陸奥の豪族安倍氏を滅ぼしました。
・1063年、その帰途に相模守として鎌倉由比郷に岩清水八幡を勧請し、「由比若宮」を建立しました。
・1081年、頼義の子義家は、この由比若宮を修理しました。
1083年
〜1087年
後三年合戦
・陸奥守となった「源義家」は、鎮守府将軍清原武則一族の内紛に介入し、清原氏を滅ぼしました。
・朝廷はこの合戦を私闘とみなし、恩賞を出さなかったので、義家は自分の土地を従軍した武士たちに分け与えました。
 (後に主人(源家)への「御恩と奉公」が生まれる基礎)
・『奥州後三年記』によると、「鎌倉権五郎景政(正)」の目に刺さった矢を、三浦平太為次(継)が彼の顔を踏んで抜こうとしたので、景政が刀で為次を突こうとしたという。

壽福寺前に建つ「源氏山」の石碑
源氏山の石碑_R.JPG源氏山は、はじめ武庫山と言い、亀ヶ谷の中央にあって景勝の地であったことから亀谷山とも称していました。

源頼義・義家父子が奥州征伐に行く時、この山に旗を立てたことにより、旗立山ともいいました。

山の麓の寿福寺境内付近は、昔から源氏代々の邸宅であった地と伝えられています。

源氏山の名称はそのことに起因するかも知れません。
旗竿を建てたと伝えられる跡が今なお残っています。

源頼義が創建した「由比若宮(元八幡)」の鳥居と、社殿
 由比若宮鳥居_R.JPG

 由比若宮社殿_R.JPG

祭神が鎌倉権五郎景政(正)の「御霊神社」(坂ノ下)」と、「景正公 弓立の松」
 御霊神社_R.JPG

 弓立の松_R.JPG

 
posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする