
平安時代は2回に分けています。
◎平安時代(後半)
・源義家の曽孫「源義朝」が、先祖からの土地である亀ヶ谷(扇ガ谷)に住んでからの
時代を見てみます。
<源義朝の系図>

<主な争いの歴史>
1144年 大庭御厨への侵入 | ・「源義朝」は、鎌倉権五郎景政が開発した所領を寄進して伊勢神宮の所領となっていた「大庭御厨」に、「鎌倉之楯」から出発し、三浦氏などと共に乱入しました。 ・「鎌倉之楯」は、義朝の死後、三浦大介義明の弟岡崎義実が、義朝供養のために堂を建てた所で、今の壽福寺付近です。 ・義朝が大庭御厨に乱入したときの関係文書をまとめたものが『天養記』。 ・義朝と三浦大介義明の娘との間に生まれた長男義平は「鎌倉悪源太」と呼ばれたが、「鎌倉」を名乗ることは彼が父義朝に代わり鎌倉を押さえていた証拠。また、武勇に優れ強いという意味で「悪源太」と呼ばれました。 |
1156年 保元の乱 | ・後白河天皇と崇徳上皇の対立に、藤原摂関家の内紛が結び付いた争い。 ・「源義朝」は、平清盛と共に後白河方として勝利しました。 ・「源為朝」は、父・為義と共に崇徳上皇方に付き、兄・義朝は後白河天皇方に付いて、親兄弟分かれて戦いましたが、敗れて伊豆大島へ流され自害しました。 |
1159年 平治の乱 | ・「源義朝」と武蔵国の国司藤原信頼は、平清盛と対立し敗北し、義朝、義平、朝長(頼朝の兄)らは死去しました。 ・「源頼朝」は池禅尼に助けられて伊豆に流され、「義経」は京都鞍馬寺に預けられました。 ・鎌倉地域は源氏の支配地ではなくなり、平家の代官である大庭景親などが相模武士団を指揮統括するようになりました。 |
<源義朝の館、「鎌倉之楯」があった「壽福寺」の総門と参道>
<源為朝が流された伊豆大島から鎌倉へ放った矢が落ちたという「六角ノ井」>

<源頼朝が父義朝の供養のために創建した「勝長寿院」跡にある「源義朝の墓」>