
鎌倉時代は、「征夷大将軍の時代」(全9代)で分けています。
◎鎌倉時代(初代将軍源頼朝)
・1180年、後白河法皇の皇子以仁王は、平氏打倒の令旨を発行。
源行家が諸国の源氏に以仁王の令旨を伝える使者となりました。
・伊豆に20年間配流されていた源頼朝は、北条氏に支えられて挙兵しました。
<源頼朝挙兵の軌跡>

<源頼朝の系図>

<「源頼朝」の時代の主な出来事>
1180年 石橋山合戦 | ・「源頼朝」は、8月に伊豆国(蛭ヶ小島)で挙兵し、伊豆の国衙の目代(代官)山木兼隆を倒すが、相模の平家方の武士により、「石橋山合戦」では敗れました。 ・この時、平家方の梶原景時の機転で箱根山中で命拾いをし、真鶴から船出し、安房国に逃れ、体制を整えました。 |
1180年 鶴岡八幡宮の遷移 大倉幕府の創設 | ・「源頼朝」は、千葉常胤の源氏ゆかりの地鎌倉を根拠地にとの進言により、10月に鎌倉に入り、かつて源頼義が創建した「鶴岡若宮(由比若宮)」を小林郷松ヶ岡に遷しました。 ・最初の鎌倉幕府「大倉幕府」は、鶴岡八幡宮の東側、大倉の地(現在の「清泉小学校」付近)に置かれました。 |
1182年 段葛の造営 | ・「源頼朝」は、妻政子の安産を願い、鶴岡八幡宮社頭から由比浦まで一直線の参道(若宮大路)を造りました。 ・頼朝自身がこれを指揮し、北条時政以下の人々も土石を運んだといいます。 |
1183年 梶原太刀洗水 | ・「梶原景時」は、源頼朝の命を受けて、頼朝が幕府を開くにあたり大きな功績のあった「上総介広常」を討ったあと、朝夷奈切通の太刀洗川に沿った岩肌から湧き出る水で、太刀の血のりを洗い流したといわれています。 ・上総介広常は、その権力が高まるにつれ、頼朝の目の上のたんこぶとなり、謀反の疑いを掛けられ暗殺されました。 |
1184年 一ノ谷の合戦 | ・「源頼朝」は、後白河法皇の要請で木曽義仲を討つ事を決め、後に送った源範頼、義経の軍勢により木曽義仲は討たれました。 ・「源範頼、義経」は、一ノ谷の戦いで平氏を破りました。 |
1184年 問注所の開設 | ・「源頼朝」は、訴訟を裁許(判決)する「問注所」を設置しました。その近くには、その名に由来する裁許橋(別名「西行橋」)があります。 |
1185年 壇ノ浦の戦いで平氏滅亡 | ・「源範頼、義経」は、屋島壇ノ浦で平家を滅亡させました。 ・義経の活躍は独断に走ったことで功績を評価されず、頼朝ともしだいに不和となっていきました。 ・「源頼朝」は、諸国に守護、地頭を設置しました。 |
1189年 奥州合戦で藤原氏滅亡 | ・「源義経」は、兄頼朝に鎌倉入りを拒絶され、藤原秀衡を頼って平泉に逃れていたが、頼朝の圧力を受けた秀衡の子泰衡によって討たれました。 ・「源頼朝」は、義経の滅亡についで、本来のねらいである奥州藤原氏を討ち、奥州を平定しました。 ※奥州藤原氏:「藤原清衡―基衡―秀衡―泰衡」の四代 |
1192年 源頼朝が征夷大将軍に任命 | ・「源頼朝」は、1191年に政所を設置し、1192年、征夷大将軍となり、武家政治の基本ができあがりました。 ・主君頼朝と御家人との主従の結び付きがさらに図られ、「御恩と奉公」による」幕府御家人制が確立していきました。 |
1193年 源範頼の伊豆追放 | ・5月、富士の裾野で曾我十郎・五郎兄弟による父の敵工藤祐経殺害事件が起こった折、「源範頼」は、頼朝も討たれたとの噂に動揺する北条政子を、「私がいるから心配ない」と慰めたことが、謀叛の疑いありとして頼朝の勘気にふれたという。 ・源範頼は、頼朝に謀反の汚名を着せられ、伊豆修禅寺に配流となり、暗殺されました。 |
1199年 源頼朝死去 | ・1月、「源頼朝」が死去(53歳)。頼家が家督を継ぐ。 ・源頼朝は、1198年11月、稲毛重成が亡妻の冥福を祈るために新造した相模川の橋供養に参列したが、その帰路に落馬しました。そのこと、また「飲水重病(重い糖尿病)」などが死因としてあげられています。 |
<清泉小学校付近の四つ角に建っている「大倉幕府旧蹟」の石碑(雪ノ下)>
今から737年前の昔、治承四年(1180年)、源頼朝邸をこの場所に造り、天下の政権を握るようになってからは、この邸宅に於いて政治を行いました。
いわゆるこれが大蔵幕府です。
以来、頼家、実朝を経て、嘉禄元年(1225年)、政子が亡くなり、幕府が宇津宮辻に移るまで、この地が幕府の中心であったのは実に46年間でした。
<二の鳥居から見た「段葛」(小町)>
<鎌倉五名水の一つ「梶原太刀洗水」(十二所)>
<御成小学校近くの角に建つ「問注所旧蹟」の石碑(御成町)>
元暦元年、源頼朝は、大蔵幕府の建物の東西の庇の所を訴訟の受付、裁断する所とする。これを問注所といった。
問注所には人々が群れ集まって、時には喧騒になることもあった。そこで、二代将軍頼家は、正冶元年、問注所を大蔵幕府の外に遷した。
この地が、即ちその問注所があった所である。
<鶴岡八幡宮の東側にある建物に付けられた「鎌倉幕府政所跡」の掲示板(雪ノ下)>
<伊豆に建てられた「源範頼の墓」(静岡県伊豆市修善寺)>
<江戸時代、頼朝の子孫と称した薩摩藩主・島津重豪建立の「源頼朝の墓」(西御門)>