
鎌倉時代は征夷大将軍の時代(全9代)で分けています。
◎鎌倉時代(第2代将軍源頼家)
・1199年、源頼朝の死後、嫡男頼家が18歳で家督を相続しました。
しかし、実権は北条氏に掌握されていました。
・源頼家が正式に征夷大将軍に任じられたのは、1202年のことでした。
<源頼家と比企氏の系図>

<「源頼家」の時代の主な出来事>
1199年 源頼家が後継 | ・源頼朝の死後、嫡男頼家が頼朝の遺跡を相続しました。 ・若き後継者頼家には御家人を統率する力量がなく、従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招きました。 |
1199年 13人の合議制 | ・北条政子が源頼家の訴訟親裁を停止し、宿老13人の合議による裁決としました。 ※宿老13人:北条時政、北条義時、大江広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政 |
1200年 梶原景時討伐 | ・1199年、「梶原景時」は、結城朝光の謀反の疑いを源頼家に讒言したが弾劾にあい、鎌倉追放となりました。 ・翌年1200年1月、景時は、三浦義村、和田義盛ら有力御家人たちに追われ、嫡男源太景季をはじめ景時の一族は、駿河国清見関で討たれました。 |
1200年 壽福寺創建 | ・「北条政子」は、栄西を招いて壽福寺を開山しました。 ・この地一帯は、源頼朝の父義朝の屋敷跡(鎌倉之楯)とされ、三浦義明の弟岡崎義実が義朝供養のために堂を建てていたが、政子は岡崎義実の子土屋義清に依頼してその土地を献上させ、栄西に寄進して壽福寺を建立しました。 |
1202年 源頼家が征夷大将軍に任命 | ・7月、「源頼家」は、征夷大将軍に任命されました。 ・頼家は、妻の父である「比企能員」との関係を深めたため、北条時政や北条政子と対立しました。 |
1203年 阿野全成殺害 | ・「源頼家」は、5月に頼朝の弟阿野全成を謀反の疑いで捕え、6月に殺害しました。全成の妻阿波局は、頼家の弟千幡(実朝)の乳母で、北条政子の妹。 ・北条時政が千幡を擁立して、頼家と対立していたためとみられています。 |
1203年 一幡と千幡の家督分割 | ・「源頼家」は、8月に病床にあり様態が悪化する中で、関東28か国の地頭職を長子一幡(6歳)に、関西38か国地頭職を弟千幡(12歳、実朝)に譲りました。 ・頼家の意向は一幡にすべてを相続させるというものであったが、北条時政らによって阻まれました。北条時政は、一幡の外祖父で有力御家人の比企能員の勢力拡大を恐れていました。 ・比企能員は、この分割処置に怒り、頼家に北条時政討伐を訴え、承諾を得ました。 |
1203年 比企氏の乱 | ・「北条時政」は、9月に薬師如来像の供養にかこつけて、「比企能員」を自邸に招いて殺害しました。 ・さらに、北条氏の軍勢は、頼家の長子一幡の館にたてこもる比企氏一族・郎従らを襲い、比企氏一族は滅ぼされました。 |
1204年 源頼家暗殺 | ・「源頼家」は、1203年の「比企氏の乱」の後、将軍職を引退させられ、伊豆修禅寺に幽閉されました。 ・1204年7月、頼家は、北条氏の刺客により殺害されました。 |
<鎌倉深沢小学校の裏手にある「梶原景時とその一族の墓」(梶原)>
<仏行寺墓地にある梶原源太景季の片腕が埋められているという「源太塚」(笛田)>
<比企氏の館の跡地に建てられた「妙本寺の総門」と「比企能員邸址」の石碑(大町)>
この地が比企ヶ谷という名があるのもこのためです。 能員の娘は頼家の寵愛を受け、若狭局とよばれて一幡という子供を生みました。
建仁3年(1203)頼家が病になると、母の政子が関西の地頭職を2分して、頼家の弟千幡に授けようとしました。
能員はこれに怒り、密かに北条氏を滅ぼそうと計画しましたが、それが漏れて逆に北条氏により比企一族はこの地で滅ぼされました。
<妙本寺境内にある「比企能員一族(比企能員夫妻ら)の墓」(大町)>
<伊豆に建てられた「源頼家の墓」(静岡県伊豆市修善寺)>