
鎌倉時代は征夷大将軍の時代(全9代)で分けています。
◎鎌倉時代(第7代将軍惟康親王)
・1266年、宗尊親王の子「惟康親王」が、征夷大将軍に任ぜられました。
・1289年、惟康親王は征夷大将軍を解任され、京都に送還されました。
・惟康親王の時代、執権は、北条政村→時宗→貞時と続きました。
<惟康親王の系図>

<北条時政〜北条貞時の執権の系図>

<「惟康親王」の時代の主な出来事>
1266年 惟康親王が第7代将軍就任 | ・宗尊親王の子「惟康親王」が、征夷大将軍に任ぜられました。 ・前将軍宗尊親王は、京都に送還されました。 |
1268年 北条時宗が執権就任 | ・「北条時宗」が8代執権に、北条政村は時宗に執権を譲り、自らは連署となりました。 ・時宗が18歳になり、蒙古襲来に対する危機管理のための人事刷新でした。 |
1271年 日蓮の龍ノ口法難 | ・日蓮は、批判した忍性から告発され、捕縛されて龍ノ口(藤沢市片瀬)で処刑されるはずであったが、御家人が刀を振り上げると、光り物が飛んでくるという奇端によって執行は中止となり、佐渡へ配流となりました。 ※「日蓮四大法難」:松葉ヶ谷法難(1260年)・伊豆法難(1261年)・小松原法難(1264年)・龍ノ口法難(1271年) |
1272年 二月騒動 | ・1246年の「宮騒動」で失脚した名越光時の弟「時章」、「教時」が、時宗の庶兄の「北条時輔」を執権に就かせる画策をしたということで、3人とも討ち取られました。 ・騒動後に、名越時章は無罪と判明して、逆に討手が斬罪になりました。 |
1274年 文永の役 | ・元と高麗の連合軍は、博多湾に上陸し、集団戦法で幕府を翻弄しましたが、突然撤退しました。 |
1277年 阿仏尼の鎌倉下向 | ・「阿仏尼」は、北条時宗に所領相続の正当性を訴えるために、京から下向し、その旅日記と鎌倉滞在記を『十六夜日記』に著しました。 |
1281年 弘安の役 | ・「北条時宗」は、博多湾の沿岸防衛のため石築地建造を九州の御家人に命じるなど、2度目の蒙古襲来に備えていたが、元軍は、暴風雨のため、甚大な被害を受けて撤退しました。 |
1282年 一遍が鎌倉入り拒否 | ・「一遍」は踊り念仏を行いながら全国を行脚し、鎌倉の北の入り口の巨福呂坂(北鎌倉付近)から鎌倉に入ろうとしたが、木戸で北条時宗に出会い阻止されました。 |
1282年 円覚寺創建 | ・「北条時宗」は、蒙古襲来の戦没者供養のため、無学祖元を開山として、「瑞鹿山円覚寺」を建立しました。 |
1284年 北条貞時が執権就任 | ・北条時宗は、元寇という国難との戦いに疲れたのか、33歳という若さで、その短い生涯を閉じました ・時宗の死後、執権の座に嫡子で14歳の「北条貞時」が就きました。 |
1285年 霜月騒動 | ・御家人を中心とした政治改革推進派の「安達泰盛」と北条得宗独裁化を進める内管領(御内人)「平頼綱」が対立。 ・安達泰盛と嫡子宗景が、平頼綱の攻撃を受けて滅びました。 |
1289年 惟康親王が将軍解任 | ・「惟康親王」は、幕府から長期在任を嫌われ、征夷大将軍を解任されて、京都に送還されました。 ・『とはずがたり』の作者後深草院二条が鎌倉に来ており、この日記に惟康親王の惨めな帰洛を記しています。 |
<龍口寺門前の「龍ノ口法難刑場跡」の石碑(藤沢)>
<龍ノ口刑場へ連行途中、袈裟を掛けたという「日蓮袈裟掛松」の石塔(稲村ヶ崎)>
<「阿仏尼邸旧蹟」の石碑(極楽寺)>
為相の異母兄為氏が、為相に属すべき和歌所の所領播磨細川庄を奪ったので、この事を執権時宗に訴え、その裁決を願い出るために、建治三年(1277)に京都を出発して東へと下り、住居を月影ヶ谷に定めました。すなわちこの場所です。
その時の日記を十六夜日記と言って世に知られています。
裁判は長引き、決着が着かず、弘安四年(1281)、遂にここで亡くなりました。
<1282年、北条時宗が創建した円覚寺「総門」と、北条貞時が寄贈した国宝「洪鐘」>
<円覚寺佛日庵の「北条時宗廟所」と、安置されている「時宗像」>
<1285年、北条時宗夫人の覚山尼が創建した「東慶寺全景」(山ノ内)>
<安達泰盛と北条時宗の系図>
・北条時宗の祖母は安達景盛の娘「松下禅尼」。
・時宗夫人は安達泰盛の養女「覚山尼」。

<北条時宗夫人の実家付近に建つ甘縄神明神社にある「北条時宗産湯の井」(長谷)>