2021年02月21日

鎌倉の歴史のまとめ−鎌倉時代(第7代将軍惟康親王)

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。
鎌倉時代は征夷大将軍の時代(全9代)で分けています。

鎌倉時代(第7代将軍惟康親王)
 ・1266年、宗尊親王の子「惟康親王」が、征夷大将軍に任ぜられました。
 ・1289年、惟康親王は征夷大将軍を解任され、京都に送還されました。
 ・惟康親王の時代、執権は、北条政村→時宗→貞時と続きました。

惟康親王の系図
 惟康親王系図.jpg

北条時政〜北条貞時の執権の系図
 執権貞時の系図.jpg

「惟康親王」の時代の主な出来事
1266年
惟康親王が第7代将軍就任
・宗尊親王の子「惟康親王」が、征夷大将軍に任ぜられました。
・前将軍宗尊親王は、京都に送還されました。
1268年
北条時宗が執権就任
・「北条時宗」が8代執権に、北条政村は時宗に執権を譲り、自らは連署となりました。
・時宗が18歳になり、蒙古襲来に対する危機管理のための人事刷新でした。
1271年
日蓮の龍ノ口法難
日蓮は、批判した忍性から告発され、捕縛されて龍ノ口(藤沢市片瀬)で処刑されるはずであったが、御家人が刀を振り上げると、光り物が飛んでくるという奇端によって執行は中止となり、佐渡へ配流となりました。
※「日蓮四大法難」:松葉ヶ谷法難(1260年)・伊豆法難(1261年)・小松原法難(1264年)・龍ノ口法難(1271年)
1272年
二月騒動
・1246年の「宮騒動」で失脚した名越光時の弟「時章」、「教時」が、時宗の庶兄の「北条時輔」を執権に就かせる画策をしたということで、3人とも討ち取られました。
・騒動後に、名越時章は無罪と判明して、逆に討手が斬罪になりました。
1274年
文永の役
・元と高麗の連合軍は、博多湾に上陸し、集団戦法で幕府を翻弄しましたが、突然撤退しました。
1277年
阿仏尼の鎌倉下向
・「阿仏尼」は、北条時宗に所領相続の正当性を訴えるために、京から下向し、その旅日記と鎌倉滞在記を『十六夜日記』に著しました。
1281年
弘安の役
・「北条時宗」は、博多湾の沿岸防衛のため石築地建造を九州の御家人に命じるなど、2度目の蒙古襲来に備えていたが、元軍は、暴風雨のため、甚大な被害を受けて撤退しました。
1282年
一遍が鎌倉入り拒否
・「一遍」は踊り念仏を行いながら全国を行脚し、鎌倉の北の入り口の巨福呂坂(北鎌倉付近)から鎌倉に入ろうとしたが、木戸で北条時宗に出会い阻止されました。
1282年
円覚寺創建
・「北条時宗」は、蒙古襲来の戦没者供養のため、無学祖元を開山として、「瑞鹿山円覚寺」を建立しました。
1284年
北条貞時が執権就任
・北条時宗は、元寇という国難との戦いに疲れたのか、33歳という若さで、その短い生涯を閉じました
・時宗の死後、執権の座に嫡子で14歳の「北条貞時」が就きました。
1285年
霜月騒動
・御家人を中心とした政治改革推進派の「安達泰盛」と北条得宗独裁化を進める内管領(御内人)「平頼綱」が対立。
・安達泰盛と嫡子宗景が、平頼綱の攻撃を受けて滅びました。
1289年
惟康親王が将軍解任
・「惟康親王」は、幕府から長期在任を嫌われ、征夷大将軍を解任されて、京都に送還されました。
・『とはずがたり』の作者後深草院二条が鎌倉に来ており、この日記に惟康親王の惨めな帰洛を記しています。

龍口寺門前の「龍ノ口法難刑場跡」の石碑(藤沢)
 龍ノ口刑場跡石碑_R.JPG

龍ノ口刑場へ連行途中、袈裟を掛けたという「日蓮袈裟掛松」の石塔(稲村ヶ崎)
 日蓮袈裟掛松_R.JPG

「阿仏尼邸旧蹟」の石碑(極楽寺)
阿仏尼邸旧蹟石碑_R.JPG阿仏尼は、藤原定家の子・為家の妻であって、和歌の師範家である冷泉家の祖である為相の母です。

為相の異母兄為氏が、為相に属すべき和歌所の所領播磨細川庄を奪ったので、この事を執権時宗に訴え、その裁決を願い出るために、建治三年(1277)に京都を出発して東へと下り、住居を月影ヶ谷に定めました。すなわちこの場所です。
その時の日記を十六夜日記と言って世に知られています。
裁判は長引き、決着が着かず、弘安四年(1281)、遂にここで亡くなりました。

1282年、北条時宗が創建した円覚寺「総門」と、北条貞時が寄贈した国宝「洪鐘」
 円覚寺総門_R.JPG

 洪鐘_R.JPG

円覚寺佛日庵の「北条時宗廟所」と、安置されている「時宗像」
 佛日庵廟所_R.JPG

 北条時宗像_R.JPG

1285年、北条時宗夫人の覚山尼が創建した「東慶寺全景」(山ノ内)
 東慶寺遠景_R.JPG

安達泰盛と北条時宗の系図
 ・北条時宗の祖母は安達景盛の娘「松下禅尼」。
 ・時宗夫人は安達泰盛の養女「覚山尼」。
 安達泰盛と北条時宗の系図.jpg

北条時宗夫人の実家付近に建つ甘縄神明神社にある「北条時宗産湯の井」(長谷)
 北条時宗産湯の井_R.JPG

 
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2021年02月20日

鎌倉長谷寺の今は 2021.2

気分転換に3密を避けた鎌倉見聞をしました。

2021年は、「長谷寺」の本尊十一面観世音菩薩が造立されて1300年になります。
721年、徳道上人が、奈良で2体の十一面観音を造らせたうちの1体と伝えられています。

海光山長谷寺(長谷)
 ・浄土宗。創建は736年。開山は徳道
 ・本尊の十一面観音菩薩像は、奈良から有縁の地で人々を救うように願われて海に流さ
  れたのち、三浦半島に流れ着き、この地が選ばれて、736年に長谷寺が創建されたと
  されています。

「山門」に掲げられた本尊造立1300年記念の「金色提灯」
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 提灯1_R.JPG

 提灯2_R.JPG

「枝垂れ梅」、「白梅」、「紅梅」など、色々なウメが咲く境内の様子
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 長谷寺枝垂れ梅3_R.JPG

 長谷寺白梅1_R.JPG

 長谷寺白梅2_R.JPG

 長谷寺白梅3_R.JPG

 長谷寺紅梅1_R.JPG

 長谷寺紅梅2_R.JPG

早咲きの「冬至梅」は、もう終わりを迎えています
 冬至梅_R.JPG

「ロウバイ」も、もう終わりを迎えています
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「マンサク」は、まだ咲いています
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 長谷寺マンサク2_R.JPG

台座に虚子の句「永き日のわれらが為めの観世音」が刻まれた聖観音像と「ツバキ」
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妙智池の畔の「カワヅザクラ」は、すでに満開になっています
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 長谷寺カワヅザクラ2_R.JPG

 長谷寺カワヅザクラ3_R.JPG

 
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2021年02月16日

鎌倉山の「しのぶ塚」の今は 2021.2

鎌倉山周辺にも史跡はあります。

 ・笛田にある「仏行寺」の山の頂上に、梶原源太景季の片腕が埋められていると伝え
  られている「源太塚」があります。
  →「鎌倉ゆかりの人物―梶原景時・景季父子のあれこれ」を参照。

 ・梶原源太景季は、父景時と共に源頼朝の下で活躍しましたが、頼朝が亡くなった後、
  父景時が他の御家人に疎まれて鎌倉を追放になると景季もこれに従い、最後は駿河で
  討たれてしまいました。

 ・梶原源太景季の妻・信夫(しのぶ)は、源太の死に嘆き悲しみ自害しました。

しのぶ塚
 ・鎌倉山には、「源太塚」と向き合って建っているという「しのぶ塚」があります。
 ・この塚は、「しのぶ」を偲んで、昭和48年に建てられたという塚です。

「しのぶ塚」と「源太塚」の場所
 しのぶ塚と源太塚の場所.jpg

住宅地の一角の広場の隅に建つ「しのぶ塚」
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 しのぶ塚2_R.JPG

 
posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | 日記_2021 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする