
鎌倉時代は征夷大将軍の時代(全9代)で分けています。
◎鎌倉時代(第6代将軍宗尊親王)
・1252年、後嵯峨上皇の皇子「宗尊親王」が、鎌倉に下向し、征夷大将軍に任ぜられ、
親王将軍が実現しました。
以後、鎌倉幕府滅亡まで親王将軍が続くことになりました。
・1266年、宗尊親王は征夷大将軍を解任され、京都に送還されました。
・宗尊親王の時代、執権は、北条時頼→長時→政村と続きました。
<宗尊親王の系図>

<北条時政〜北条政村の執権の系図>

<「宗尊親王」の時代の主な出来事>
1252年 宗尊親王が第6代将軍就任 | ・後嵯峨上皇の皇子「宗尊親王」は、執権北条時頼の申請により鎌倉に下向しました。 ・宗尊親王は、征夷大将軍に任命され、親王将軍が実現しました。 ・この時に、公家の藤原重房(上杉重房)も宗尊親王に従って鎌倉に下向。この出来事から、1363年に上杉重房から3代目の憲顕が鎌倉公方の補佐役として「関東管領」に任じられて、「鎌倉公方と関東管領」の歴史が始まります。 |
1252年 金銅製の「鎌倉大仏」の鋳造 | ・8月に金銅の大仏が鋳られ始めました。 ・この時に約10年かけて建立されたのが、現在の「鎌倉大仏(高徳院阿弥陀如来像)」です。 |
1253年 建長寺創建 | ・「北条時頼」は、宋の蘭渓道隆を招いて日本で初めての禅専門道場である「建長寺」を創建しました。 ・1255年、「建長寺の梵鐘」は北条時頼が大旦那となり、鋳物師物部重光によって鋳造されました。 |
1256年 北条長時が執権就任 | ・北条時頼は、病気のため「北条長時」に執権を譲りました。 ・北条時頼は、1263年に死去しました。 |
1257年 鎌倉で大地震発生 | ・鎌倉で大地震が起こりました。神社仏閣や人家が大きな被害を受け、がけ崩れや地割れが発生しました。 ・幕府は、僧侶や「陰陽師」に祈禱を命じたということです。 |
1260年 日蓮の松葉ヶ谷法難が勃発 | ・「日蓮」は、安国論寺で『立正安国論』を書き、前執権の北条時頼に建白しましたが、宗教政策の転換を促す内容であったため、松葉ヶ谷の草庵にいた日蓮は念仏者に夜間襲撃されました。これが四大法難の一つ「松葉ヶ谷の法難」。 「日蓮四大法難」:・松葉ヶ谷法難(1260年)・伊豆法難(1261年)・小松原法難(1264年)・龍ノ口法難(1271年) |
1264年 北条政村が執権就任 | ・北条長時が出家して、「北条政村」が、7代執権となりました。 ・連署には、北条時宗が就任しました。 |
1266年 宗尊親王が将軍解任 | ・宗尊親王の妻近衛宰子と護持僧良基の密通事件を受けて、北条時宗邸で、北条時宗、北条政村、金沢実時、安達泰盛による「深秘の御沙汰」が行われました。 ・「宗尊親王」は征夷大将軍を解任され、京都に送還されましたが、この時、「名越教時」は騒動を起こして、時宗に制せられました。 |
<「扇谷上杉関東管領屋敷迹」の石碑(扇ガ谷)>
藤原重房は、鎌倉幕府6代将軍宗尊親王に従って鎌倉に下向しました。
そして、京都の上杉に領地をもらったので名前を上杉としました。
重房から5代目の上杉顕定は、扇谷家の祖となり、扇谷家の6代目の上杉定正は、太田道灌を用いて勢力を拡大しました。
<高徳院に建つ国宝「鎌倉大仏(銅造阿弥陀如来坐像)」(長谷)>
<建長寺の鐘楼と国宝「梵鐘」(山ノ内)>
<八雲神社(山ノ内)に置かれた安倍清明の伝説の「清明石」>
・知らずに踏めば足が丈夫になり、知った上で踏むと足が悪くなるという石
<「松葉ヶ谷法難」の舞台となった地の一つ安国論寺の「南面窟」(大町)>
・日蓮が焼き討ちにあった時、白猿が裏山に導いてくれた伝説の洞窟
<明月院にある「北条時頼の廟所」と「北条時頼の墓」(山ノ内)>
<龍口寺輪番八ヶ寺の一つ本蓮寺「山門」と、「宗尊親王の歌碑」(藤沢市)>
・宗尊親王が解任されて帰京の途で読んだ歌
「帰り来て又見ん事も固瀬川 濁れる水のすまぬ世なれば」