2021年02月14日

鎌倉の歴史のまとめ−鎌倉時代(第6代将軍宗尊親王)

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。
鎌倉時代は征夷大将軍の時代(全9代)で分けています。

鎌倉時代(第6代将軍宗尊親王)
 ・1252年、後嵯峨上皇の皇子「宗尊親王」が、鎌倉に下向し、征夷大将軍に任ぜられ、
  親王将軍が実現しました。
  以後、鎌倉幕府滅亡まで親王将軍が続くことになりました。
 ・1266年、宗尊親王は征夷大将軍を解任され、京都に送還されました。
 ・宗尊親王の時代、執権は、北条時頼→長時→政村と続きました。

宗尊親王の系図
 宗尊親王系図.jpg

北条時政〜北条政村の執権の系図
 執権政村の系図.jpg

「宗尊親王」の時代の主な出来事
1252年
宗尊親王が第6代将軍就任
・後嵯峨上皇の皇子「宗尊親王」は、執権北条時頼の申請により鎌倉に下向しました。
宗尊親王は、征夷大将軍に任命され、親王将軍が実現しました。
・この時に、公家の藤原重房(上杉重房)も宗尊親王に従って鎌倉に下向。この出来事から、1363年に上杉重房から3代目の憲顕が鎌倉公方の補佐役として「関東管領」に任じられて、「鎌倉公方と関東管領」の歴史が始まります。
1252年
金銅製の「鎌倉大仏」の鋳造
・8月に金銅の大仏が鋳られ始めました。
・この時に約10年かけて建立されたのが、現在の「鎌倉大仏(高徳院阿弥陀如来像)」です。
1253年
建長寺創建
・「北条時頼」は、宋の蘭渓道隆を招いて日本で初めての禅専門道場である「建長寺」を創建しました。
・1255年、「建長寺の梵鐘」は北条時頼が大旦那となり、鋳物師物部重光によって鋳造されました。
1256年
北条長時が執権就任
・北条時頼は、病気のため「北条長時」に執権を譲りました。
北条時頼は、1263年に死去しました。
1257年
鎌倉で大地震発生
・鎌倉で大地震が起こりました。神社仏閣や人家が大きな被害を受け、がけ崩れや地割れが発生しました。
・幕府は、僧侶や「陰陽師」に祈禱を命じたということです。
1260年
日蓮の松葉ヶ谷法難が勃発
・「日蓮」は、安国論寺で『立正安国論』を書き、前執権の北条時頼に建白しましたが、宗教政策の転換を促す内容であったため、松葉ヶ谷の草庵にいた日蓮は念仏者に夜間襲撃されました。これが四大法難の一つ「松葉ヶ谷の法難」。
 「日蓮四大法難」:・松葉ヶ谷法難(1260年)・伊豆法難(1261年)・小松原法難(1264年)・龍ノ口法難(1271年)
1264年
北条政村が執権就任
・北条長時が出家して、「北条政村」が、7代執権となりました。
・連署には、北条時宗が就任しました。
1266年
宗尊親王が将軍解任
・宗尊親王の妻近衛宰子と護持僧良基の密通事件を受けて、北条時宗邸で、北条時宗、北条政村、金沢実時、安達泰盛による「深秘の御沙汰」が行われました。
・「宗尊親王」は征夷大将軍を解任され、京都に送還されましたが、この時、「名越教時」は騒動を起こして、時宗に制せられました。

「扇谷上杉関東管領屋敷迹」の石碑(扇ガ谷)
扇谷上杉管領屋敷址石碑_R.JPG
藤原重房は、鎌倉幕府6代将軍宗尊親王に従って鎌倉に下向しました。
そして、京都の上杉に領地をもらったので名前を上杉としました。

重房から5代目の上杉顕定は、扇谷家の祖となり、扇谷家の6代目の上杉定正は、太田道灌を用いて勢力を拡大しました。

高徳院に建つ国宝「鎌倉大仏(銅造阿弥陀如来坐像)」(長谷)
 鎌倉大仏_R.JPG

建長寺の鐘楼と国宝「梵鐘」(山ノ内)
 建長寺鐘楼_R.JPG

八雲神社(山ノ内)に置かれた安倍清明の伝説の「清明石」
 ・知らずに踏めば足が丈夫になり、知った上で踏むと足が悪くなるという石
 安倍晴明の石_R.JPG

「松葉ヶ谷法難」の舞台となった地の一つ安国論寺の「南面窟」(大町)
 ・日蓮が焼き討ちにあった時、白猿が裏山に導いてくれた伝説の洞窟
 南面窟_R.JPG

明月院にある「北条時頼の廟所」と「北条時頼の墓」(山ノ内)
 時頼廟所_R.JPG

 北条時頼の墓_R.JPG

龍口寺輪番八ヶ寺の一つ本蓮寺「山門」と、「宗尊親王の歌碑」(藤沢市)
 本蓮寺山門_R.JPG

 ・宗尊親王が解任されて帰京の途で読んだ歌
 「帰り来て又見ん事も固瀬川 濁れる水のすまぬ世なれば」
 宗尊親王歌碑_R.JPG

 
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2021年02月11日

鎌倉海蔵寺の「梅」の今は 2021.2

気分転換に3密を避けた鎌倉見聞をしました。
梅の季節を迎え、花の寺「海蔵寺」の今を見てみました。

扇谷山海蔵寺(扇ガ谷)
 ・1394年創建。開山は、謡曲「殺生石」で知られる心昭空外(源翁禅師)。
  開基は、上杉氏定。鎌倉公方足利氏満の命により創建されました。

「山門前」の様子と、山門から見る境内の様子
 海蔵寺山門_R.JPG

 海蔵寺境内_R.JPG

境内左側の「枝垂れ梅」はまだですが、庫裏前の「紅梅」は満開です
 海蔵寺紅梅1_R.JPG

 海蔵寺紅梅2_R.JPG

鐘楼前の庭にも「紅梅」が咲いています
 海蔵寺紅梅3_R.JPG

 海蔵寺紅梅4_R.JPG

山門横の通用門側に咲いている「白梅」は見頃です
 海蔵寺白梅1_R.JPG

 海蔵寺白梅2_R.JPG

 海蔵寺白梅3_R.JPG

「仏殿(薬師堂)」の右横には、「ツバキ」が見られます
 海蔵寺薬師堂_R.JPG

 海蔵寺ツバキ_R.JPG

鐘楼の足元には、「フクジュソウ」が見られます
 海蔵寺フクジュソウ1_R.JPG

 海蔵寺フクジュソウ2_R.JPG

庫裏前では、「スイセン」がたくさん咲いています
 海蔵寺スイセン_R.JPG

山門前にある「底脱ノ井」の水面には、石碑が映っています
 底脱ノ井_R.JPG

 底脱ノ井水面_R.JPG

 
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2021年02月10日

鎌倉の歴史のまとめ−鎌倉時代(第5代将軍藤原頼嗣)

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。
鎌倉時代は征夷大将軍の時代(全9代)で分けています。

鎌倉時代(第5代将軍藤原頼嗣)
 ・1244年、「藤原(九条)頼嗣」が第5代将軍に就任しました。
 ・1252年、頼嗣は、前年の祖父と父の謀反の計画関与につき、将軍を解任され京都に
  送還されました。
 ・頼嗣の時代、執権は、北条経時→時頼と続きました。

藤原(九条)頼嗣の系図
 藤原頼経と頼嗣の系図.jpg

北条時政〜北条時頼の執権の系図
 執権時頼の系図.jpg

「藤原(九条)頼嗣」の時代の主な出来事
1244年
藤原頼嗣が第5代将軍に就任
・「藤原頼嗣」が元服し、征夷大将軍に任命されました。
・頼嗣は、北条経時の妹である檜皮姫を御台所に迎えました。
1246年
北条時頼が執権就任
・3月、「北条経時」は、子息が幼少であるため、弟の「時頼」に執権を譲りました。
北条時頼は、父時氏と早くに死別したため、祖父泰時に養育され、その才能を高く評価されていました。
・「経時」は、父時氏の早世で、19歳で4代執権になりましたが、執権職の心労により重病となり、弟の時頼に執権職を譲り、4月に出家し、23歳の若さで病死しました。
1246年
宮騒動
・前将軍藤原頼経の側近で北条氏一門の「名越光時」は、北条時頼の討伐計画を立てたとの嫌疑をかけられて出家し、伊豆国の江間に配流されました。
・北条時頼は、騒動の原因となりかねない前将軍頼経を京都に強制送還しました。
1247年
宝治合戦
・北条時頼は、北条重時の鎌倉招請に関して三浦泰村と対立していました。
・1247年、「北条時頼」は、外祖父の安達景盛とともに三浦氏を攻撃し、その一族を滅ぼしました。
・「三浦泰村」は、源頼朝の法華堂に籠り、北条軍を迎え撃ったが力尽き、弟の光村らとともに法華堂で自害しました。
1249年
引付を設置
・「北条時頼」は、裁判の迅速化を図るため、訴訟担当機関の「引付」を新設しました。
・引付衆には、北条政村、北条朝直、北条資時らが就任しました。
1252年
藤原頼嗣が退任
・1251年、謀反の情報が広まり、宝治合戦で没落した千葉氏や三浦氏の残党が捕えられました。
・この謀反の計画には、京都の藤原(九条)道家、頼経父子が関与していたとされ、1252年、「藤原頼嗣」は、将軍を解任されて、京都に送還されました。

光明寺裏山(天照山)の中腹にある「北条経時の墓」(材木座)
 北条経時の墓1_R.JPG

 ・「蓮華寺殿当山願主安楽大居士」の文字が刻まれている塔
 北条経時の墓2_R.JPG

源頼朝の法華堂跡にある「三浦一族の墓」(西御門)
 法華堂跡_R.JPG

 三浦一族の墓_R.JPG

三浦一族、三浦泰村・光村の系図
 三浦泰村の系図.jpg

 
posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする