2021年02月07日

鎌倉の歴史のまとめ−鎌倉時代(第4代将軍藤原頼経)

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。
鎌倉時代は征夷大将軍の時代(全9代)で分けています。

鎌倉時代(第4代将軍藤原頼経)
 ・1219年、源実朝暗殺の後、藤原(九条)道家の子「三寅」(のち頼経)が、頼朝の
  遠縁にあたることにより、将軍の後継として鎌倉に入りました。
 ・3歳の三寅が成長するまでは、北条政子が「尼将軍」として政治を進めました。
 ・藤原(九条)頼経が征夷大将軍に任ぜられたのは、1226年のことでした。
 ・1244年、頼経は征夷大将軍を退任しました。
 ・頼経の時代、執権は、北条義時→泰時→経時と続きました。

藤原(九条)頼経の系図
 頼朝と藤原頼経の関係図.jpg

北条時政〜北条経時の執権の系図
 執権経時の系図.jpg

「藤原(九条)頼経」の時代の主な出来事
1219年
九条道家の子三寅が鎌倉入り
・「北条政子」は、後鳥羽上皇の皇子を将軍として下向させることを申請するが拒否されました。
・左大臣藤原(九条)道家の子三寅(2歳、のち「頼経」)が、源頼朝の妹の曽孫にあたることにより、将軍の後継として鎌倉に入りました。
1221年
承久の乱
・「後鳥羽上皇」は、北条義時追討の院宣を諸国の武士に発し、鎌倉幕府との戦いが起きました。「北条政子・義時 VS 後鳥羽上皇」の戦いとも言える戦いです。
・「北条政子」は、御家人を招集し、頼朝以来の御恩を訓示して結束を固め、幕府軍は勝利を収めました。
・幕府は、朝廷と西国武士の監視統制のために六波羅探題を設けました。
1224年
北条泰時が執権就任
伊賀氏の変
・6月、「北条義時」が死去し、嫡男の「泰時」が3代執権に就任しました。
・これを不満とする義時の後妻伊賀氏は、娘婿一条実雅を将軍、実子北条政村を執権に立てようとしたが発覚し、伊賀氏は流罪となりました。
1225年
北条政子死去
宇津宮辻子幕府へ移転
・7月、「北条政子」が死去しました。
・大倉御所の移転が行われ、藤原(九条)頼経は「宇津宮辻子」の新御所に移りました。
・執権、連署とともに、訴訟や政策会議を進める評定衆が設けられました。
1226年
藤原頼経が第4代将軍就任
・「藤原(九条)頼経」は、承久の乱の処理が一段落したこの時点で、征夷大将軍に任命されました。
1232年
和賀江嶋築港
御成敗式目制定
・7月、勧進聖人「往阿弥陀仏」が、鎌倉への船の着岸の煩いをなくすために、船着場として「和賀江嶋」の築港を幕府に申請し、北条泰時がこれを受け入れて8月に整備されました。
・8月、泰時は、源頼朝以来の先例や武家社会の慣習を基とした日本最初の武家成文法を定めた「御成敗式目(貞永式目)」を制定して執権政治を確立しました。
1236年
若宮大路幕府へ移転
藤原頼経は、宇津宮辻子御所から北側に新造された「若宮大路御所」に移りました。
・この御所の移転により鎌倉の町の中心は、鶴岡八幡宮とそれから延びる若宮大路に移って行きました。
1240年
切通の整備
・10月に「巨福呂坂」を整備した幕府が、今度は鎌倉と六浦津とを結ぶ道路建設を決定しました。
・1241年、北条泰時は、自ら現場で指揮を執り、「朝夷奈切通」が開削され、六浦路が整備されました。
1242年
北条泰時死去
北条経時が執権就任
・6月、「北条泰時」が死去し、泰時の嫡男時氏の長男「経時」が、4代執権に就任しました。
・北条泰時は、子の時氏が病のため1230年に28歳の若さで死去したため、自分の後継者として孫の経時を指名していました。
1243年
木製の鎌倉大仏建立
・勧進聖人「浄光房」の6年間の勧進活動により、8丈余の木製の阿弥陀像(大仏)が建立されました。
・僧良信を導師として、深沢の大仏の供養が行われました。
1244年
藤原頼経が将軍退任
・藤原頼経の子頼嗣が元服し、頼経から頼嗣への将軍譲位を朝廷に伝え、「藤原頼嗣」が征夷大将軍に任命されました。
・前将軍藤原頼経は、大殿として鎌倉にとどまりました。

「北条義時の法華堂(墳墓堂)跡(北条義時の墓)」(西御門)
 法華堂跡_R.JPG

安養院に建てられた宝篋印塔の「北条政子の墓(供養塔)」(大町)
 北条政子の墓_R.JPG

「宇津宮辻幕府旧蹟」の石碑(小町)
宇津宮辻子幕府旧蹟石碑_R.JPG
鎌倉幕府は初め大蔵の地にあったが、嘉禄元年(1225)、北条政子が亡くなった時に別の場所に移すことが検討されました。

北条時房、北条泰時などが評議の末、同じ年の11月にこの場所に造営され、12月には将軍藤原頼経がここに移り住みました。

その後、嘉禎2年(1236)、頼経が更に若宮大路幕府に移るまで政治の中心であることおよそ12年です。

「和賀江嶋」の石碑と、海面から姿を現した「和賀江嶋」(材木座)
和賀江嶋石碑_R.JPG
和賀とは、現在の材木座の古い呼び名です。

この場所は昔、木材の集散する港であったことから、やがて現在の名前が付くようになりました。

和賀江島は、その和賀の港口を守るために築いた堤をいいます。

今から約69余年の昔、貞永元年(1232)、勧進僧の往阿弥陀仏が、構築を申請したのを平盛綱がこの工事を監督し、7月15日に起工し、8月9日に竣工させる事ができたものです。

富士山と和賀江嶋_R.JPG

「若宮大路幕府旧蹟」の石碑(雪ノ下)
若宮大路幕府旧蹟石碑_R.JPG
鎌倉幕府は初め大蔵にあったが、嘉禄元年(1225)、北条政子が亡くなると共に、将軍藤原頼経を宇津宮辻に移しました。

その11年後の嘉禎2年(1236)に、更にこの地に移しました。

それ以後98年間、頼経以後六代の将軍が相継いでここで政治を行いました。

元弘3年(1333)、新田義貞が鎌倉に攻め入ったことにより亡びました。

鎌倉七口の一つ「朝夷奈切通」入口と、その石碑(十二所)
 朝夷奈切通_R.JPG

朝夷奈切通石碑_R.JPG
鎌倉七口の一つで、鎌倉より六浦へ通じる重要な道で、大切通、小切通の二つがあります。土地の人の話では、朝夷奈三郎義秀が、一夜の内に切り抜いたのでその名前が付いたと伝えられています。

東鑑(吾妻鏡)によると、仁治元年(1240)十一月に、鎌倉六浦間の道路を切開くことが決まり、翌二年(1241)四月に工事が開始され、執権北条泰時もそこに出かけて監督しており、多くの人が集まって土石を運んだことが書かれています。
この切通は、その当時に開通したものと思われます。

「常楽寺山門」と、仏殿背後に建てられた「北条泰時の墓」(大船)
 常楽寺山門_R.JPG

 北条泰時墓_R.JPG

 
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2021年02月06日

鎌倉浄妙寺の今は 2021.2

気分転換に3密を避けた鎌倉見聞をしました。
鎌倉五山第五位「浄妙寺」の「ウメ」や「ロウバイ」、「セツブンソウ」などは、どうでしょうか。

稲荷山浄妙寺(浄明寺)
 ・1188年、頼朝の重臣、足利義兼退耕行勇を開山とし、極楽寺という密教系の寺とし
  て建立。
  のち、建長寺開山の蘭渓道隆の弟子、月峯了然が住職となり臨済宗に改められ、寺名
  も浄妙寺となりました。

山門前の「白梅」は、例年この時期は、まだまだ蕾です
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本堂に向かう参道脇には、「白梅」だけが少し咲いています
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本堂に向かう参道脇の「ロウバイ」は、例年より遅くまだ蕾です
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節分の時期に咲く「セツブンソウ」が、本堂と喜泉庵の間にひっそり咲いています
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「ツバキ」は、石窯ガーデンテラスに向かう沿道に咲いています
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石窯ガーデンテラス前の庭に、「スイセン」がたくさん咲いています
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散策路の小径には、「ロウバイ」や「白梅」が少し見られます
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 浄妙寺小径白梅_R.JPG

 
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2021年02月02日

鎌倉明月院の「ロウバイ」の今は 2021.2

2月に入り、気晴らしに3密を避けた散策で、鎌倉見聞しました。
今が見頃の「明月院」の「ロウバイ」と「マンサク」を見てみました。

福源山明月院(山ノ内)
 ・1160年、「明月庵」が山内首藤俊道の子、山内首藤経俊によって創建。
 ・1256年、北条時頼が「最明寺」を建立、廃寺後、北条時宗が「禅興寺」を再興。
 ・1380年、鎌倉公方足利氏満が関東管領上杉憲方に「禅興寺」の中興を命じ、足利義満
  の時代に「明月庵」は「明月院」と改められて「禅興寺」の子院の首位に置かれる。
 ・「禅興寺」は、明治初年に廃寺となり、「明月院」のみを残し今日に至る。

静寂な明月院の「正門入口」と、そこに咲く「紅梅」の様子
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山門へ向かう参道脇に咲く「ロウバイ」
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「宗猷堂(開山堂)」と、その後ろに咲いている「ロウバイ」
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その他、境内のあちらこちらに見られる数々の「ロウバイ」
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春になったら“まず咲く”という「マンサク」
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「花想い地蔵」は、コロナ禍の今、何を想っているのでしょうか
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posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | 日記_2021 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする