
鎌倉時代は征夷大将軍の時代(全9代)で分けています。
◎鎌倉時代(第3代将軍源実朝)
・1203年、源頼朝の二男千幡は、実朝の名を与えられ、征夷大将軍に任じられました。
・源実朝が第3代将軍に就任してから、北条氏の執権政治が始まりました。
<源実朝の系図>

<「源実朝」の時代の主な出来事>
1203年 源実朝が第3代将軍に就任 | ・「源実朝」は、9月に征夷大将軍に任命されました。 ・源頼家は、北条政子から出家を命じられ、将軍の座から引きずり降ろされ、伊豆修禅寺に幽閉されました。 ・「北条時政」は、政所の別当として実朝を補佐し、初代執権となりました。 |
1205年 畠山重忠の乱 | ・北条時政の後妻牧ノ方の女婿平賀朝雅が、畠山重忠の嫡男重保と口論しました。 ・「畠山重保」は、それを契機として、由比ヶ浜付近で北条時政の命を受けた三浦義村に討たれました。 ・ついで「畠山重忠」も武蔵国二俣川で幕府軍と戦い、戦死しました。 |
1205年 北条時政の失脚 | ・「畠山重忠の乱」の後、北条時政は、源実朝を殺害し時政の後妻牧ノ方の女婿平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、「北条政子・義時」らに阻止されました。 ・北条義時が執権に就任し、時政は失脚・追放されました。 |
1211年 鴨長明が鎌倉に下向 | ・「鴨長明」は、飛鳥井雅経の供として鎌倉に下向して、源実朝と面談しました。 ・源頼朝の忌日に、その墳墓堂である法華堂に参り、和歌一首を堂の柱に記しました。 |
1212年 大慈寺創建 | ・1212年、「源実朝」は、父頼朝への感謝のために大慈寺を創建しました。 ・1214年、大供養が行われ、尼御台政子及び将軍実朝が格式のある儀礼にて参列しました。 |
1213年 和田合戦 | ・「和田義盛」とその一族は、謀反の計画の処理を巡り執権北条義時と激しく対立し、北条氏打倒をめざして挙兵しました。 ・三浦義村は、義盛を裏切り、義盛の挙兵を義時に伝えました。 ・朝比奈三郎義秀ら義盛の軍勢は、将軍御所などを襲撃し、由比ヶ浜や若宮大路で戦闘が行われました。将軍御所を攻められた源実朝は、頼朝法華堂に避難しました。 ・結局、和田義盛らが戦死して、合戦は終結しました。 ・北条義時は、政所別当のほか、義盛に代わって侍所別当も兼任することになりました。 |
1216年 唐船の建造 | ・「源実朝」は、宋の医王山参詣のため、宋人陳和卿に唐船の建造を命じました。 ・唐船は、翌1217年4月に完成したものの、なぜか進水には失敗しました。 |
1219年 源実朝の暗殺 | ・「源実朝」は、1月、鶴岡八幡宮寺で右大臣拝賀の式に出て退出の際、甥の鶴岡八幡宮別当公暁(源頼家の子)によって殺害されました。 ・公暁も、乳母の夫三浦義村のもとへおもむく途中に殺され、源頼朝の源家は断絶するところとなりました。 |
<鶴岡八幡宮東側鳥居付近にある「畠山重忠邸址の石碑」(雪ノ下)>
正治元年(1199年)5月、源頼朝の娘三幡が病気にかかり、これを治すために、当時の名医丹波時長が京都から来ました。
吾妻鏡によると、7日に時長が、掃部頭中原親能の亀ガ谷の家から、 畠山次郎重忠の南御門にある宅に移りました。
これは、三幡姫の近い所に居て、姫の病気治療にあたるためです。
この場所が、即ち南御門の家のあった跡です。
<若宮大路に建つ「畠山重保邸址」の石碑と、「畠山重保の墓」(由比ヶ浜)>
畠山重保は重忠の長男で、かつて北条時政の婿の平賀朝雅と争いになり、朝雅はその恨みを蓄え、重保父子を時政に讒言しました。
時政も重忠が頼朝の死後、その遺言に従って、頼家を保護するの見て恨んでいたため、 何かあれば失脚の機会をねらっていました。
そこで源実朝の命令であるとして、兵を遣わして重保の邸を囲みました。
重保も奮闘しましたが戦死しました。
時に元久二年(1205年)6月22日のことで、この場所は、その屋敷跡です。
その翌日、重忠もまた偽りの誘いを受けて武蔵国の二俣川で討ち死にしました。
<住宅街に建つ「大慈寺跡」の石碑(十二所)>
その後、正嘉元年(1257)、征夷大将軍宗尊親王の時、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重ノ塔、鐘楼等ことごとく修理され、その美しさは創建当時以上であると東鑑(吾妻鏡)に記載されています。当時の盛観さを想い描くことができます。その後700年過ぎた現在、壮麗であったこの地は一片の礎石をも見付けることができません。桑滄の変化を思うところです。
<和田塚にある「和田義盛一族の墓」(由比ヶ浜)>
<源実朝が、造船時に材木を切り出した所に建つ「船玉神社」(藤沢市大鋸)>
<壽福寺墓地にある「源実朝の墓」(扇ガ谷)>