
鎌倉時代は征夷大将軍の時代(全9代)で分けています。
◎鎌倉時代(第5代将軍藤原頼嗣)
・1244年、「藤原(九条)頼嗣」が第5代将軍に就任しました。
・1252年、頼嗣は、前年の祖父と父の謀反の計画関与につき、将軍を解任され京都に
送還されました。
・頼嗣の時代、執権は、北条経時→時頼と続きました。
<藤原(九条)頼嗣の系図>

<北条時政〜北条時頼の執権の系図>

<「藤原(九条)頼嗣」の時代の主な出来事>
1244年 藤原頼嗣が第5代将軍に就任 | ・「藤原頼嗣」が元服し、征夷大将軍に任命されました。 ・頼嗣は、北条経時の妹である檜皮姫を御台所に迎えました。 |
1246年 北条時頼が執権就任 | ・3月、「北条経時」は、子息が幼少であるため、弟の「時頼」に執権を譲りました。 ・北条時頼は、父時氏と早くに死別したため、祖父泰時に養育され、その才能を高く評価されていました。 ・「経時」は、父時氏の早世で、19歳で4代執権になりましたが、執権職の心労により重病となり、弟の時頼に執権職を譲り、4月に出家し、23歳の若さで病死しました。 |
1246年 宮騒動 | ・前将軍藤原頼経の側近で北条氏一門の「名越光時」は、北条時頼の討伐計画を立てたとの嫌疑をかけられて出家し、伊豆国の江間に配流されました。 ・北条時頼は、騒動の原因となりかねない前将軍頼経を京都に強制送還しました。 |
1247年 宝治合戦 | ・北条時頼は、北条重時の鎌倉招請に関して三浦泰村と対立していました。 ・1247年、「北条時頼」は、外祖父の安達景盛とともに三浦氏を攻撃し、その一族を滅ぼしました。 ・「三浦泰村」は、源頼朝の法華堂に籠り、北条軍を迎え撃ったが力尽き、弟の光村らとともに法華堂で自害しました。 |
1249年 引付を設置 | ・「北条時頼」は、裁判の迅速化を図るため、訴訟担当機関の「引付」を新設しました。 ・引付衆には、北条政村、北条朝直、北条資時らが就任しました。 |
1252年 藤原頼嗣が退任 | ・1251年、謀反の情報が広まり、宝治合戦で没落した千葉氏や三浦氏の残党が捕えられました。 ・この謀反の計画には、京都の藤原(九条)道家、頼経父子が関与していたとされ、1252年、「藤原頼嗣」は、将軍を解任されて、京都に送還されました。 |
<光明寺裏山(天照山)の中腹にある「北条経時の墓」(材木座)>
・「蓮華寺殿当山願主安楽大居士」の文字が刻まれている塔
<源頼朝の法華堂跡にある「三浦一族の墓」(西御門)>
<三浦一族、三浦泰村・光村の系図>
