2021年02月10日

鎌倉の歴史のまとめ−鎌倉時代(第5代将軍藤原頼嗣)

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。
鎌倉時代は征夷大将軍の時代(全9代)で分けています。

鎌倉時代(第5代将軍藤原頼嗣)
 ・1244年、「藤原(九条)頼嗣」が第5代将軍に就任しました。
 ・1252年、頼嗣は、前年の祖父と父の謀反の計画関与につき、将軍を解任され京都に
  送還されました。
 ・頼嗣の時代、執権は、北条経時→時頼と続きました。

藤原(九条)頼嗣の系図
 藤原頼経と頼嗣の系図.jpg

北条時政〜北条時頼の執権の系図
 執権時頼の系図.jpg

「藤原(九条)頼嗣」の時代の主な出来事
1244年
藤原頼嗣が第5代将軍に就任
・「藤原頼嗣」が元服し、征夷大将軍に任命されました。
・頼嗣は、北条経時の妹である檜皮姫を御台所に迎えました。
1246年
北条時頼が執権就任
・3月、「北条経時」は、子息が幼少であるため、弟の「時頼」に執権を譲りました。
北条時頼は、父時氏と早くに死別したため、祖父泰時に養育され、その才能を高く評価されていました。
・「経時」は、父時氏の早世で、19歳で4代執権になりましたが、執権職の心労により重病となり、弟の時頼に執権職を譲り、4月に出家し、23歳の若さで病死しました。
1246年
宮騒動
・前将軍藤原頼経の側近で北条氏一門の「名越光時」は、北条時頼の討伐計画を立てたとの嫌疑をかけられて出家し、伊豆国の江間に配流されました。
・北条時頼は、騒動の原因となりかねない前将軍頼経を京都に強制送還しました。
1247年
宝治合戦
・北条時頼は、北条重時の鎌倉招請に関して三浦泰村と対立していました。
・1247年、「北条時頼」は、外祖父の安達景盛とともに三浦氏を攻撃し、その一族を滅ぼしました。
・「三浦泰村」は、源頼朝の法華堂に籠り、北条軍を迎え撃ったが力尽き、弟の光村らとともに法華堂で自害しました。
1249年
引付を設置
・「北条時頼」は、裁判の迅速化を図るため、訴訟担当機関の「引付」を新設しました。
・引付衆には、北条政村、北条朝直、北条資時らが就任しました。
1252年
藤原頼嗣が退任
・1251年、謀反の情報が広まり、宝治合戦で没落した千葉氏や三浦氏の残党が捕えられました。
・この謀反の計画には、京都の藤原(九条)道家、頼経父子が関与していたとされ、1252年、「藤原頼嗣」は、将軍を解任されて、京都に送還されました。

光明寺裏山(天照山)の中腹にある「北条経時の墓」(材木座)
 北条経時の墓1_R.JPG

 ・「蓮華寺殿当山願主安楽大居士」の文字が刻まれている塔
 北条経時の墓2_R.JPG

源頼朝の法華堂跡にある「三浦一族の墓」(西御門)
 法華堂跡_R.JPG

 三浦一族の墓_R.JPG

三浦一族、三浦泰村・光村の系図
 三浦泰村の系図.jpg

 
posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする