2021年03月14日

鎌倉の歴史のまとめ−鎌倉幕府滅亡後の「建武の新政」の時代

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。
今回は、鎌倉幕府滅亡後、室町幕府が確立するまでの混乱期についてです。

鎌倉幕府滅亡後の「建武の新政」
 ・1333年鎌倉幕府滅亡後、鎌倉には足利尊氏の嫡男千寿王(後の義詮)の他、足利直義
  と成良親王が入りました。
 ・1334〜1336年:鎌倉幕府を打倒した「後醍醐天皇」が、天皇親政を復活させた
  建武政権の時代。
 ・1336年、後醍醐天皇は、元弘の乱後の混乱を収拾しきれず、武士階級の反感を買い、
  足利尊氏との戦いで敗北したことにより、政権は崩壊しました。

後醍醐天皇の系図
 後醍醐天皇の系図 (2).jpg

鎌倉幕府滅亡後、「建武の新政」の時代の主な出来事
1333年
足利直義が鎌倉入り
・「後醍醐天皇」は、鎌倉に皇子成良親王と足利尊氏の弟直義を派遣しました。
1334年
建武の新政
護良親王が鎌倉に配流
・「後醍醐天皇」による「建武の新政」が始まりました。
・「護良親王」が謀叛の疑いで、後醍醐天皇の命で鎌倉に流され、足利直義の監視下に置かれました。
1335年
宝戒寺創建
・「後醍醐天皇」は、北条一族の霊を弔うため「足利尊氏」に命じて北条氏の執権屋敷跡に宝戒寺を建立させました。
1335年
中先代の乱
・北条高時の遺児「北条時行」が、幕府復活を計って挙兵し、一時鎌倉を占拠しました。
・このとき、足利直義は、監禁していた「護良親王」を殺害させて三河に逃れました。
・「足利尊氏」は、直義敗北を聞き、後醍醐天皇の許可を得ないまま京都を発して鎌倉を奪回しました。
1335年
足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻す
・後醍醐天皇は、足利尊氏を討つために新田義貞を鎌倉に派遣しました。
・「足利尊氏」は、赦免を求めて浄光明寺に入って謹慎したが、後醍醐天皇に反旗を翻すことを決意しました。
・足利尊氏は、新田義貞らの官軍を箱根竹ノ下で撃破して勝利しました。
1336年
足利尊氏の上洛
・「足利尊氏」は、持明院統の光厳上皇を奉じて入京、そののち後醍醐天皇との講和が結ばれました。

開基が後醍醐天皇となる「宝戒寺の本堂」(小町)
 宝戒寺本堂_R.JPG

宝戒寺境内にある14代執権北条高時の木像を安置する「徳崇大権現堂」
 徳崇大権現堂_R.JPG

明治2年に創建された大塔宮(護良親王)を祭神とする「鎌倉宮」(二階堂)
 鎌倉宮_R.JPG

鎌倉宮境内奥にある護良親王が幽閉された「土牢」
 大塔宮御聖所の碑_R.JPG

鎌倉宮の近くにある宮内庁管理の「護良親王の墓所」(二階堂)
 護良親王墓所_R.JPG

護良親王の子日叡が再興した妙法寺にある「護良親王の墓」(大町)
 護良親王の墓_R.JPG

足利尊氏が蟄居し、後醍醐天皇を裏切る覚悟を決めた「浄光明寺の山門」(扇ガ谷)
 浄光明寺_R.JPG

 
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2021年03月13日

鎌倉砂押川プロムナードの桜の今は 2021.3

平成15年に整備された鎌倉女子大の大船キャンパスの横にある並木道「砂押川プロムナード」の桜の様子は、どうでしょうか。

ソメイヨシノ」は、まだ蕾です。これからです。
 ※満開の様子は、「鎌倉砂押川プロムナードの桜は 2017.4」を参照。

砂押川プロムナード(大船)
説明板
 砂押川プロムナード説明板_R.JPG

今は、「寒緋桜」が見られます
 砂押川プロムナード寒緋桜_R.jpg

「玉縄桜」はもう葉桜になっていて、終わります
 砂押川プロムナード玉繩桜_R.jpg

 砂押川プロムナード玉繩桜 (2)_R.jpg

 
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2021年03月07日

鎌倉の歴史のまとめ−鎌倉時代(第9代将軍守邦親王)

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。
鎌倉時代は征夷大将軍の時代(全9代)で分けています。

今回が最後の鎌倉幕府将軍となります。
 ※@源頼朝→A源頼家→B源実朝→C藤原(九条)頼経→D藤原頼嗣
  →E宗尊親王→F惟康親王→G久明親王→H守邦親王

鎌倉時代(第9代将軍守邦親王)
 ・1308年、久明親王の子「守邦親王」が、征夷大将軍に任ぜられました。
 ・1333年、守邦親王は征夷大将軍を辞任し、出家しました。鎌倉幕府将軍の中で、
  24年9カ月と在職期間が最長でした。
 ・守邦親王の時代、執権は、北条師時→大佛宗宣→熙時→基時→高時→金沢貞顕
  →赤橋守時と続きました。

守邦親王の系図
 守邦親王系図.jpg

北条時政〜赤橋守時の執権の系図
 執権守時の系図.jpg

「守邦親王」の時代の主な出来事
1308年
守邦親王が第9代将軍就任
・久明親王の子「守邦親王」が、征夷大将軍に任ぜられました。
・前将軍久明親王は、京都に送還されました。
1308年
建長寺・円覚寺が定額寺
北条貞時の申請によって、「建長寺・円覚寺」を定額寺としました。これによって、両寺は、北条氏の私寺から官寺に準じる寺格となり、これがのちの鎌倉五山の制度の先駆となりました。
1311年
大佛宗宣が執権就任
・「大佛宗宣」が11代執権に就任しました。
北条貞時が死去しました。嫡子の高時は、まだ9歳でした。貞時は、得宗高時の後見を、内管領の長崎円喜と安達時顕に託しました。
1312年
北条煕時が執権就任
・「北条煕時」が12代執権に就任しました。
・政務の実権は内管領の長崎円喜が掌握していました。
1315年
北条基時が執権就任
・「北条基時」(普恩寺基時)が13代執権に就任しました。
・政務の実権は内管領の長崎高資が掌握していました。
1316年
北条高時が執権就任
・「北条高時」が14代執権に就任しました。
・政務の実権は内管領の長崎氏らが掌握していました。
1324年
正中の変
・六波羅探題への密告により、倒幕計画が発覚しました。倒幕計画に参加した日野資朝・俊基らが鎌倉に護送され、日野俊基は疑わしいけれども無罪放免、日野資朝は翌年、佐渡に配流となりました。
・「後醍醐天皇」は、勅使万里小路宣房の告文によって罪に問われませんでした。
1326年
金沢貞顕が執権就任
・3月、「金沢貞顕」が15代執権に就任しました。
・北条氏得宗家の家督継承を巡る内管領の長崎氏と外戚安達氏の抗争による内紛により、10日後に執権職を辞職しました。
1326年
赤橋守時が執権就任
・4月、「赤橋守時」が16代執権に就任しました。しかし実権は、出家していた北条得宗家の北条高時や内管領長崎高資らに握られていました。
赤橋守時の妹登子は、足利尊氏の正室でした。
1327年
瑞泉寺建立
・「夢窓疎石」が瑞泉院を建立、これが「瑞泉寺」の源となりました。
・翌年、夢窓疎石は、山頂に徧界一覧亭を設けました。
1331年
元弘の変
・再度、「後醍醐天皇」の倒幕計画が発覚して後醍醐天皇は捕えられ、1332年、隠岐に配流となりました。
・「日野俊基」は、葛原ヶ岡で処刑され、日野資朝も配流先の佐渡で処刑されました。
1333年
鎌倉幕府が滅亡
・「新田義貞」が、足利高氏(後の尊氏)の子、千寿王(後の義詮)を擁して討幕のため挙兵し、後醍醐天皇も隠岐を脱出しました。
足利高氏は、後醍醐天皇の味方になって六波羅を攻め落とす決意をし、六波羅探題はついに陥落しました。
新田義貞は、極楽寺、仮粧坂、山内三方から攻撃し、稲村ヶ崎から市内に突入し、得宗北条高時はじめ一族は、東勝寺で自害し、鎌倉幕府が滅亡しました。
・「守邦親王」は出家し、幕府滅亡後の3か月後に死去しました。

鎌倉五山第一位「建長寺」、第二位「円覚寺」の三門(山門)
 建長寺三門_R.JPG

 円覚寺山門_R.JPG

開山の「夢窓国師像」と、それが安置されている「瑞泉寺本堂」
 夢窓国師坐像_R.JPG

 瑞泉寺本堂_R.JPG

葛原ヶ岡に建てられている「日野俊基の墓」
 日野俊基の墓_R.JPG

稲村ヶ崎公園内に建っている「稲村崎の石碑」と、「新田義貞徒渉伝説地の碑」
稲村ヶ崎石碑_R.JPG

今から584年の昔、元弘三年(1333年)5月21日に、新田義貞がこの岬を回り鎌倉に進入しようとして、黄金製の刀を海に投じて、潮が退くことを海神に祈ったと伝えられているのはこの場所です。

 新田義貞徒渉伝説地の石碑8229_R.JPG

東勝寺跡の傍に建っている「東勝寺旧蹟の石碑」と、「腹切りやぐら」
東勝寺旧蹟石碑_R.JPG
元弘三年(1333年)五月、新田義貞が鎌倉に攻め入ると、北条高時は小町の邸宅を出て、先祖代々の墓所である東勝寺にこもりました。

150年間、賑わい極めた鎌倉の町の邸宅や商店が、今や一面に炎と煙に包まれている様子を遠く眺めながら、一族の者870余人と共に自刃しました。

その北条執権政治の終局となる悲惨な場面は、実にこの場所で行われたのです。

腹切りやぐら_R.JPG

 
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