
鎌倉時代は征夷大将軍の時代(全9代)で分けています。
今回が最後の鎌倉幕府将軍となります。
※@源頼朝→A源頼家→B源実朝→C藤原(九条)頼経→D藤原頼嗣
→E宗尊親王→F惟康親王→G久明親王→H守邦親王
◎鎌倉時代(第9代将軍守邦親王)
・1308年、久明親王の子「守邦親王」が、征夷大将軍に任ぜられました。
・1333年、守邦親王は征夷大将軍を辞任し、出家しました。鎌倉幕府将軍の中で、
24年9カ月と在職期間が最長でした。
・守邦親王の時代、執権は、北条師時→大佛宗宣→熙時→基時→高時→金沢貞顕
→赤橋守時と続きました。
<守邦親王の系図>

<北条時政〜赤橋守時の執権の系図>

<「守邦親王」の時代の主な出来事>
1308年 守邦親王が第9代将軍就任 | ・久明親王の子「守邦親王」が、征夷大将軍に任ぜられました。 ・前将軍久明親王は、京都に送還されました。 |
1308年 建長寺・円覚寺が定額寺 | ・北条貞時の申請によって、「建長寺・円覚寺」を定額寺としました。これによって、両寺は、北条氏の私寺から官寺に準じる寺格となり、これがのちの鎌倉五山の制度の先駆となりました。 |
1311年 大佛宗宣が執権就任 | ・「大佛宗宣」が11代執権に就任しました。 ・北条貞時が死去しました。嫡子の高時は、まだ9歳でした。貞時は、得宗高時の後見を、内管領の長崎円喜と安達時顕に託しました。 |
1312年 北条煕時が執権就任 | ・「北条煕時」が12代執権に就任しました。 ・政務の実権は内管領の長崎円喜が掌握していました。 |
1315年 北条基時が執権就任 | ・「北条基時」(普恩寺基時)が13代執権に就任しました。 ・政務の実権は内管領の長崎高資が掌握していました。 |
1316年 北条高時が執権就任 | ・「北条高時」が14代執権に就任しました。 ・政務の実権は内管領の長崎氏らが掌握していました。 |
1324年 正中の変 | ・六波羅探題への密告により、倒幕計画が発覚しました。倒幕計画に参加した日野資朝・俊基らが鎌倉に護送され、日野俊基は疑わしいけれども無罪放免、日野資朝は翌年、佐渡に配流となりました。 ・「後醍醐天皇」は、勅使万里小路宣房の告文によって罪に問われませんでした。 |
1326年 金沢貞顕が執権就任 | ・3月、「金沢貞顕」が15代執権に就任しました。 ・北条氏得宗家の家督継承を巡る内管領の長崎氏と外戚安達氏の抗争による内紛により、10日後に執権職を辞職しました。 |
1326年 赤橋守時が執権就任 | ・4月、「赤橋守時」が16代執権に就任しました。しかし実権は、出家していた北条得宗家の北条高時や内管領長崎高資らに握られていました。 ・赤橋守時の妹登子は、足利尊氏の正室でした。 |
1327年 瑞泉寺建立 | ・「夢窓疎石」が瑞泉院を建立、これが「瑞泉寺」の源となりました。 ・翌年、夢窓疎石は、山頂に徧界一覧亭を設けました。 |
1331年 元弘の変 | ・再度、「後醍醐天皇」の倒幕計画が発覚して後醍醐天皇は捕えられ、1332年、隠岐に配流となりました。 ・「日野俊基」は、葛原ヶ岡で処刑され、日野資朝も配流先の佐渡で処刑されました。 |
1333年 鎌倉幕府が滅亡 | ・「新田義貞」が、足利高氏(後の尊氏)の子、千寿王(後の義詮)を擁して討幕のため挙兵し、後醍醐天皇も隠岐を脱出しました。 ・足利高氏は、後醍醐天皇の味方になって六波羅を攻め落とす決意をし、六波羅探題はついに陥落しました。 ・新田義貞は、極楽寺、仮粧坂、山内三方から攻撃し、稲村ヶ崎から市内に突入し、得宗北条高時はじめ一族は、東勝寺で自害し、鎌倉幕府が滅亡しました。 ・「守邦親王」は出家し、幕府滅亡後の3か月後に死去しました。 |
<鎌倉五山第一位「建長寺」、第二位「円覚寺」の三門(山門)>
<開山の「夢窓国師像」と、それが安置されている「瑞泉寺本堂」>
<葛原ヶ岡に建てられている「日野俊基の墓」>
<稲村ヶ崎公園内に建っている「稲村崎の石碑」と、「新田義貞徒渉伝説地の碑」>
今から584年の昔、元弘三年(1333年)5月21日に、新田義貞がこの岬を回り鎌倉に進入しようとして、黄金製の刀を海に投じて、潮が退くことを海神に祈ったと伝えられているのはこの場所です。
<東勝寺跡の傍に建っている「東勝寺旧蹟の石碑」と、「腹切りやぐら」>
元弘三年(1333年)五月、新田義貞が鎌倉に攻め入ると、北条高時は小町の邸宅を出て、先祖代々の墓所である東勝寺にこもりました。
150年間、賑わい極めた鎌倉の町の邸宅や商店が、今や一面に炎と煙に包まれている様子を遠く眺めながら、一族の者870余人と共に自刃しました。
その北条執権政治の終局となる悲惨な場面は、実にこの場所で行われたのです。