
◎瑞鹿山円覚寺(山ノ内)
・1282年創建。開山は無学祖元。開基は8代執権北条時宗。
<「総門」前の新緑の様子>
<「山門」前の新緑の様子>
<「居士林」前の新緑の様子>
<仏殿裏の庭に咲く「ナンジャモンジャの木」>
<方丈前の百観音霊場の庭に咲く「ハクウンボク」>
<方丈庭園(心字池)のパノラマ>
<「黄梅院の山門」前の新緑の様子>
<葉をイカダに、葉の上にある小さな花を船頭に見立てる「ハナイカダ」>
<総門から見える踏切を横切る「横須賀線」>
1458年 堀越公方 | ・将軍足利義政の異母兄「足利政知」が、鎌倉公方として京都を出立したが、伊豆の堀越に留まり、堀越公方と呼ばれました。 ・1466年、足利政知は、玄泉を円覚寺住持に、受寅を壽福寺住持に推挙して幕府の許可を得るなどして、1491年に亡くなるまで鎌倉公方として伊豆堀越にいました。 |
1486年 太田道灌死去 | ・僧で詩人の万里集九は、扇谷上杉定正の執事太田道灌の招きで、1485年に江戸城に入っていましたが、定正の許可を得て鎌倉に参りました。 ・太田道灌は、力を持ち過ぎたとして嫌疑を抱いた当主上杉定正に、粕屋の館(伊勢原市)で暗殺されました。 |
1512年 玉繩城築城 | ・伊勢長氏(のちの北条早雲)は、扇谷上杉氏側の勢力の三浦道寸(義同)を追撃するために鎌倉に入りました。 ・伊勢長氏(のちの北条早雲)は、三浦氏に対する前線基地として玉繩城を築城しました。 |
1516年 三浦氏の滅亡 | ・伊勢長氏(のちの北条早雲)は、相模の岡崎城から住吉城(逗子)に逃れ、新井城(三浦半島)に籠城した三浦道寸(義同)を攻め、滅亡させました。 |
1526年 里見氏の鎌倉来襲 | ・安房の里見実堯の軍勢が鎌倉に来襲し、鶴岡八幡宮の付近で北条方の軍と戦い敗退しました。この戦いで鶴岡八幡宮以下諸同社が焼失しました。 |
1547年 北条氏の鎌倉の検地 | ・北条氏康は、鎌倉の検地を行い、諸寺に土地を寄進して安堵し、鎌倉を支配する政権であることをしましました。 |
1561年 上杉謙信が関東管領就任 | ・長尾景虎(のちの上杉謙信)は、関東管領山内上杉憲政から管領職と上杉の名跡を継ぎ、鶴岡八幡宮で拝賀の式を行いました。 ・長尾景虎は、上杉姓を名乗ることで政虎と改名しました。 |
1590年 北条氏の滅亡 | ・豊臣秀吉は、小田原城を攻めて北条氏を滅ぼして、鎌倉に入り、鶴岡八幡宮に詣でて修理を命じました。 |
・室町時代中後期の武将。後北条氏(小田原北条氏)の祖。 ・初めは、「伊勢新九郎長氏(伊勢新九郎盛時)」と称していましたが、出家して「伊勢宗瑞(いせ そうずい)」と呼ばれるようになりました。 「北条」を名乗るようになったのは、2代・氏綱の時代からです。 ・1512年、小田原城を本拠とする北条早雲は、三浦義同を攻めて敗走させ、鎌倉に入ったとき、戦乱で荒廃した鎌倉の復興の意思を歌に詠みました。 「枯るる樹に また花の木を植ゑそへて もとの都になしてこそみめ」 |
・玉縄城は、天然の要害となる丘陵に堀や土塁、曲輪などを加えた戦国時代の広大な山城でした。 ・1590年に豊臣秀吉に無血開城されるまで、落城したことはありませんでした。 ・当時をしのぶ地形は、七曲、太鼓櫓址、諏訪壇、ふわん坂などに残っています。 |
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