2021年04月29日

鎌倉円覚寺の新緑の今は 2021.4

季節の進みが早い今年、新緑の美しい「円覚寺」を見てみました。

瑞鹿山円覚寺(山ノ内)
 ・1282年創建。開山は無学祖元。開基は8代執権北条時宗。

「総門」前の新緑の様子
 円覚寺総門前_R.JPG

 円覚寺総門_R.JPG

「山門」前の新緑の様子
 円覚寺山門前_R.JPG

 円覚寺山門_R.JPG

「居士林」前の新緑の様子
 居士林_R.JPG

仏殿裏の庭に咲く「ナンジャモンジャの木」
 円覚寺ナンジャモンジャの木1_R.JPG

 円覚寺ナンジャモンジャの木2_R.JPG

 円覚寺ナンジャモンジャの木3_R.JPG

 円覚寺ナンジャモンジャの木4_R.JPG

方丈前の百観音霊場の庭に咲く「ハクウンボク」
 円覚寺百観音霊場1_R.JPG

 円覚寺百観音霊場2_R.JPG

 円覚寺ハクウンボク1_R.JPG

 円覚寺ハクウンボク2_R.JPG

方丈庭園(心字池)のパノラマ
 円覚寺方丈庭園_R.JPG

「黄梅院の山門」前の新緑の様子
 黄梅院_R.JPG

葉をイカダに、葉の上にある小さな花を船頭に見立てる「ハナイカダ」
 円覚寺ハナイカダ_R.JPG

総門から見える踏切を横切る「横須賀線」
 横須賀線_R.JPG

 
posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | 日記_2021 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月28日

鎌倉広町緑地の大桐の今は 2021.4

1週間ほど前に、広町緑地の咲き始めの「大桐」を見ました。
 →「鎌倉広町緑地の今は 2021.4」を参照。

さて、あれから1週間、今はどうなっているでしょうか。

広町緑地(腰越地域)
 ・三大緑地の中で一番広い(48.1ha)緑地です。
 ・2015年(平成27)4月に「都市林」として生まれ変わりました。
  ※「都市林」:主として動植物の生息地または生育地である樹林地等の保護を目的
   とする都市公園

「大桐」のビューポイント2カ所の図
 大桐ビューポイント.JPG

「大桐」のビューポイント「1」からの風景
 広町緑地大桐1_R.JPG

 大桐2_R.JPG

 大桐3_R.JPG

「大桐」のビューポイント「2」からの風景
 大桐4_R.JPG

 大桐6_R.JPG


次のような姿になるのは、まだまだでしょうか
 ・2015年5月
 20150508大桐_R.JPG

 
posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | 日記_2021 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月26日

鎌倉の歴史のまとめ−室町時代(古河公方)〜戦国時代

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。

室町時代(古河公方)〜戦国時代
 ・1455年、足利成氏が鎌倉から下総古河に移ってからは、関東は大動乱の時代に入り
  ました。
 ・1573年、15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放されました。
  その後、1590年、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼしました。

1455年「古河公方の始まり」当時の関東の勢力イメージ図
 関東勢力イメージ1455年.jpg

「室町時代(古河公方)〜戦国時代」の時代の主な出来事
1458年
堀越公方
・将軍足利義政の異母兄「足利政知」が、鎌倉公方として京都を出立したが、伊豆の堀越に留まり、堀越公方と呼ばれました。
・1466年、足利政知は、玄泉を円覚寺住持に、受寅を壽福寺住持に推挙して幕府の許可を得るなどして、1491年に亡くなるまで鎌倉公方として伊豆堀越にいました。
1486年
太田道灌死去
・僧で詩人の万里集九は、扇谷上杉定正の執事太田道灌の招きで、1485年に江戸城に入っていましたが、定正の許可を得て鎌倉に参りました。
太田道灌は、力を持ち過ぎたとして嫌疑を抱いた当主上杉定正に、粕屋の館(伊勢原市)で暗殺されました。
1512年
玉繩城築城
伊勢長氏(のちの北条早雲)は、扇谷上杉氏側の勢力の三浦道寸(義同)を追撃するために鎌倉に入りました。
伊勢長氏(のちの北条早雲)は、三浦氏に対する前線基地として玉繩城を築城しました。
1516年
三浦氏の滅亡
伊勢長氏(のちの北条早雲)は、相模の岡崎城から住吉城(逗子)に逃れ、新井城(三浦半島)に籠城した三浦道寸(義同)を攻め、滅亡させました。
1526年
里見氏の鎌倉来襲
・安房の里見実堯の軍勢が鎌倉に来襲し、鶴岡八幡宮の付近で北条方の軍と戦い敗退しました。この戦いで鶴岡八幡宮以下諸同社が焼失しました。
1547年
北条氏の鎌倉の検地
北条氏康は、鎌倉の検地を行い、諸寺に土地を寄進して安堵し、鎌倉を支配する政権であることをしましました。
1561年
上杉謙信が関東管領就任
長尾景虎(のちの上杉謙信)は、関東管領山内上杉憲政から管領職と上杉の名跡を継ぎ、鶴岡八幡宮で拝賀の式を行いました。
・長尾景虎は、上杉姓を名乗ることで政虎と改名しました。
1590年
北条氏の滅亡
豊臣秀吉は、小田原城を攻めて北条氏を滅ぼして、鎌倉に入り、鶴岡八幡宮に詣でて修理を命じました。

「扇谷上杉関東管領屋敷迹」の石碑(扇ガ谷)
扇谷上杉管領屋敷址石碑_R.JPG

藤原重房は、鎌倉幕府6代将軍宗尊親王に従って鎌倉に下向しました。
そして、京都の上杉に領地をもらったので名前を上杉としました。

重房から5代目の上杉顕定は、扇谷家の祖となり、扇谷家の6代目の上杉定正は、太田道灌を用いて勢力を拡大しました。

英勝寺総門前に建つ「太田道灌邸旧蹟の石碑」(扇ガ谷)
太田道灌邸旧蹟石碑_R.JPG
この地は、軍略と文才を兼ね備え、「武蔵野は萱原の野と聞きしかど かかる言葉の花もあるかな」と、天皇にも褒められる太田道灌持資が、江戸城築城前の屋敷跡です。

寛永十一年(1634)、今の英勝寺の創立者水戸藩の祖 徳川頼房の養母であった英勝院は、道灌の嫡流太田康資の娘で、晩年、将軍徳川家光から特にこの地を授り受けてここに住むようになりました。

「孤鞍雨をついて茅茨を叩く 少女為に遣る花一枝」という詩の逸話は、道灌が壮年ここに住んでいた頃の話です。

源氏山公園から壽福時に下る道にある「太田道灌の墓」(扇ガ谷)
 太田道灌の墓_R.JPG

 ※「太田道灌」については、「鎌倉ゆかりの人物―太田道灌のあれこれ」を参照。

小田原北条氏・玉縄北条氏の系図
 小田原北条氏・玉縄北条氏系図.jpg

 ※北条早雲(伊勢宗瑞)(1432または1456〜1519年)について
・室町時代中後期の武将。後北条氏(小田原北条氏)の祖。
・初めは、「伊勢新九郎長氏(伊勢新九郎盛時)」と称していましたが、出家して「伊勢宗瑞(いせ そうずい)」と呼ばれるようになりました。
 「北条」を名乗るようになったのは、2代・氏綱の時代からです。
・1512年、小田原城を本拠とする北条早雲は、三浦義同を攻めて敗走させ、鎌倉に入ったとき、戦乱で荒廃した鎌倉の復興の意思を歌に詠みました。
 「枯るる樹に また花の木を植ゑそへて もとの都になしてこそみめ

1512年、北条早雲(伊勢宗瑞)が築いた「玉縄城」の城址(城廻)
玉縄城は、天然の要害となる丘陵に堀や土塁、曲輪などを加えた戦国時代の広大な山城でした。
・1590年に豊臣秀吉に無血開城されるまで、落城したことはありませんでした。
・当時をしのぶ地形は、七曲、太鼓櫓址、諏訪壇、ふわん坂などに残っています。

「玉縄城を偲ぶコース案内図」と「城郭図」
 玉縄城を偲ぶコース_R.JPG

 城郭図_R.JPG

玉縄北条氏の菩提寺として栄えた「龍寳寺」(植木)
 ・曹洞宗。1500年代半ば、「北条綱成」が建立した瑞光院がこの寺の始まり。
 ・その後、「北条氏勝」によって現在地に移されました。
 龍寳寺山門_R.JPG

龍寳寺境内に建つ「玉縄北条氏供養塔」と「説明板」
 ・玉縄城主(北条綱成、氏繁、氏勝)の供養塔
 玉縄北条氏供養塔_R.JPG

 玉縄北条氏供養塔説明板_R.JPG

 
posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする