
なお、室町時代は、幕府成立から鎌倉公方の時代と、それ以降の時代に分けています。
※鎌倉公方:
足利尊氏は、鎌倉に義詮のあとに「基氏」を置いて、初代「鎌倉公方」としました。
また、関東管領・評定衆・引付衆・諸奉行を設置し、関東8ヵ国に伊豆・甲斐を加え
た10ヵ国を管轄させました。
◎室町時代(幕府成立から鎌倉公方)
・1336年、足利尊氏は「建武式目」を作り、京都室町に幕府を開き、鎌倉にも鎌倉府を
設けました。
・鎌倉公方は、足利基氏以降、1455年に足利成氏が古河公方となるまで、次の5代続き
ました。
※足利尊氏→「基氏―氏満―満兼―持氏―成氏(初代古河公方)」
<鎌倉公方と関東管領の関係図>

<「室町時代(幕府成立から鎌倉公方)」の主な出来事>
1336年 建武式目制定 | ・足利尊氏は、政治方針を定めた建武式目を制定しました。 |
1338年 室町幕府を開く | ・足利尊氏は、征夷大将軍となり、京都に室町幕府を開きました。 |
1349年 鎌倉公方の統治 | ・足利尊氏は、鎌倉を武家政権の要地として考えて「鎌倉府」を置き、その長官(「鎌倉公方」)に関東を統治させました。 ・足利尊氏は、子の足利基氏を鎌倉公方初代長官としました。 |
1350年 観応の擾乱 | ・幕府の執事高師直と足利尊氏の弟直義との対立から、動乱が全国的に拡大しました。 ・足利尊氏、義詮と、足利直義の間で、全面的な武力衝突となりました。 |
1352年 足利直義死去 足利尊氏死去 | ・足利直義は、尊氏に敗れて鎌倉に移り、浄妙寺西北の延福寺で急逝しました。 ・その後、1358年に足利尊氏が、死去しました。 |
1363年 上杉憲顕が関東管領就任 | ・足利基氏の要請で、上杉憲顕が幕政に復帰し、関東管領として鎌倉公方を補佐しました。 ・その後、関東管領は上杉氏が世襲していきました。 |
1367年 足利氏満が第2代鎌倉公方就任 | ・足利基氏が没し、子の氏満が第2代鎌倉公方に就任しました。 ・この頃から鎌倉公方は幕府と対立し始めました。 |
1398年 足利満兼が第3代鎌倉公方就任 | ・足利氏満が没し、子の満兼が第3代鎌倉公方に就任しました。 |
1409年 足利持氏が第4代鎌倉公方就任 | ・足利満兼が没し、子の持氏が第4代鎌倉公方に就任しました。 |
1416年 上杉禅秀の乱 | ・足利満隆(足利満兼の弟)と前関東管領上杉禅秀(氏憲)が足利持氏に反乱を起こしたが、翌年、満隆と禅秀共に自害し、乱は終結しました。 |
1438年 永享の乱 | ・足利持氏と幕府との関係が悪化し、幕府は持氏討伐を決定しました。 ・翌1439年、足利持氏は、鎌倉永安寺(二階堂)で自害しました。以降、長らく鎌倉公方は置かれませんでした。 |
1447年 足利成氏が第5代鎌倉公方就任 | ・幕府は足利持氏の遺児成氏が、鎌倉公方となることを認め、鎌倉公方の復活が果たされ、上杉憲忠を関東管領としました。 ・しかし、成氏派と上杉被官(反成氏派)との間の対立は深刻化していきました。 |
1454年 享徳の乱の始まり | ・足利成氏が、父持氏を死に追いやった上杉憲実の子、上杉憲忠を謀殺しました。 ・以後、成氏軍と上杉軍の間で合戦が始まり(享徳の乱の始)、のちに京都で起こる応仁の乱よりも13年先んじて、関東は大動乱の時代に入りました。 |
1455年 古河公方の始まり | ・足利成氏は、幕府から成氏討伐の命を受けた今川軍に敗れ、鎌倉を落ち延びて下総古河に逃れ、古河公方と呼ばれました。 ・これを契機に、鎌倉府は事実上なくなりました。 |
<「足利公方邸旧蹟」の石碑(浄明寺)>
足利尊氏が権力を握って京都に移った後に、その子の義詮が2代将軍となって、京都の家を継ぐに及んで、義詮の弟の基氏が関東管領となって、軍の指揮をこの家からとりました。
こうして家は子孫に引き継がれました。子孫は京都にならって公方と名乗っていました。
享徳四年(1455)公方成氏は、執事の上杉憲忠との不和により下総古河に移ったために、ついに永く廃墟となってしまいました。
<鎌倉五山第五位の浄妙寺にある「足利直義の墓」(浄明寺)>
<開基が足利尊氏となっている長壽寺にある「足利尊氏の墓」(山ノ内)>
<鎌倉公方代々の菩提寺として栄えた別願寺にある「足利持氏の供養塔」(大町)>