
◎室町時代(古河公方)〜戦国時代
・1455年、足利成氏が鎌倉から下総古河に移ってからは、関東は大動乱の時代に入り
ました。
・1573年、15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放されました。
その後、1590年、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼしました。
<1455年「古河公方の始まり」当時の関東の勢力イメージ図>

<「室町時代(古河公方)〜戦国時代」の時代の主な出来事>
1458年 堀越公方 | ・将軍足利義政の異母兄「足利政知」が、鎌倉公方として京都を出立したが、伊豆の堀越に留まり、堀越公方と呼ばれました。 ・1466年、足利政知は、玄泉を円覚寺住持に、受寅を壽福寺住持に推挙して幕府の許可を得るなどして、1491年に亡くなるまで鎌倉公方として伊豆堀越にいました。 |
1486年 太田道灌死去 | ・僧で詩人の万里集九は、扇谷上杉定正の執事太田道灌の招きで、1485年に江戸城に入っていましたが、定正の許可を得て鎌倉に参りました。 ・太田道灌は、力を持ち過ぎたとして嫌疑を抱いた当主上杉定正に、粕屋の館(伊勢原市)で暗殺されました。 |
1512年 玉繩城築城 | ・伊勢長氏(のちの北条早雲)は、扇谷上杉氏側の勢力の三浦道寸(義同)を追撃するために鎌倉に入りました。 ・伊勢長氏(のちの北条早雲)は、三浦氏に対する前線基地として玉繩城を築城しました。 |
1516年 三浦氏の滅亡 | ・伊勢長氏(のちの北条早雲)は、相模の岡崎城から住吉城(逗子)に逃れ、新井城(三浦半島)に籠城した三浦道寸(義同)を攻め、滅亡させました。 |
1526年 里見氏の鎌倉来襲 | ・安房の里見実堯の軍勢が鎌倉に来襲し、鶴岡八幡宮の付近で北条方の軍と戦い敗退しました。この戦いで鶴岡八幡宮以下諸同社が焼失しました。 |
1547年 北条氏の鎌倉の検地 | ・北条氏康は、鎌倉の検地を行い、諸寺に土地を寄進して安堵し、鎌倉を支配する政権であることをしましました。 |
1561年 上杉謙信が関東管領就任 | ・長尾景虎(のちの上杉謙信)は、関東管領山内上杉憲政から管領職と上杉の名跡を継ぎ、鶴岡八幡宮で拝賀の式を行いました。 ・長尾景虎は、上杉姓を名乗ることで政虎と改名しました。 |
1590年 北条氏の滅亡 | ・豊臣秀吉は、小田原城を攻めて北条氏を滅ぼして、鎌倉に入り、鶴岡八幡宮に詣でて修理を命じました。 |
<「扇谷上杉関東管領屋敷迹」の石碑(扇ガ谷)>
藤原重房は、鎌倉幕府6代将軍宗尊親王に従って鎌倉に下向しました。
そして、京都の上杉に領地をもらったので名前を上杉としました。
重房から5代目の上杉顕定は、扇谷家の祖となり、扇谷家の6代目の上杉定正は、太田道灌を用いて勢力を拡大しました。
<英勝寺総門前に建つ「太田道灌邸旧蹟の石碑」(扇ガ谷)>
この地は、軍略と文才を兼ね備え、「武蔵野は萱原の野と聞きしかど かかる言葉の花もあるかな」と、天皇にも褒められる太田道灌持資が、江戸城築城前の屋敷跡です。
寛永十一年(1634)、今の英勝寺の創立者水戸藩の祖 徳川頼房の養母であった英勝院は、道灌の嫡流太田康資の娘で、晩年、将軍徳川家光から特にこの地を授り受けてここに住むようになりました。
「孤鞍雨をついて茅茨を叩く 少女為に遣る花一枝」という詩の逸話は、道灌が壮年ここに住んでいた頃の話です。
<源氏山公園から壽福時に下る道にある「太田道灌の墓」(扇ガ谷)>
※「太田道灌」については、「鎌倉ゆかりの人物―太田道灌のあれこれ」を参照。
<小田原北条氏・玉縄北条氏の系図>

※北条早雲(伊勢宗瑞)(1432または1456〜1519年)について
・室町時代中後期の武将。後北条氏(小田原北条氏)の祖。 ・初めは、「伊勢新九郎長氏(伊勢新九郎盛時)」と称していましたが、出家して「伊勢宗瑞(いせ そうずい)」と呼ばれるようになりました。 「北条」を名乗るようになったのは、2代・氏綱の時代からです。 ・1512年、小田原城を本拠とする北条早雲は、三浦義同を攻めて敗走させ、鎌倉に入ったとき、戦乱で荒廃した鎌倉の復興の意思を歌に詠みました。 「枯るる樹に また花の木を植ゑそへて もとの都になしてこそみめ」 |
<1512年、北条早雲(伊勢宗瑞)が築いた「玉縄城」の城址(城廻)>
・玉縄城は、天然の要害となる丘陵に堀や土塁、曲輪などを加えた戦国時代の広大な山城でした。 ・1590年に豊臣秀吉に無血開城されるまで、落城したことはありませんでした。 ・当時をしのぶ地形は、七曲、太鼓櫓址、諏訪壇、ふわん坂などに残っています。 |
<「玉縄城を偲ぶコース案内図」と「城郭図」>
<玉縄北条氏の菩提寺として栄えた「龍寳寺」(植木)>
・曹洞宗。1500年代半ば、「北条綱成」が建立した瑞光院がこの寺の始まり。
・その後、「北条氏勝」によって現在地に移されました。
<龍寳寺境内に建つ「玉縄北条氏供養塔」と「説明板」>
・玉縄城主(北条綱成、氏繁、氏勝)の供養塔