2021年05月14日

鎌倉の歴史のまとめ−明治時代

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。

明治時代
 ・明治維新により、鎌倉は、神奈川県に属することになりました。
 ・交通機関の整備により、保養地、別荘地として発展していきました。

「明治時代」の主な出来事
1868年
(明治元)
明治維新
・神仏分離令と廃仏毀釈で、鶴岡八幡宮寺は「鶴岡八幡宮」となりました。
1869年
(明治2)
鎌倉宮創建
・護良親王の遺志を後世に伝えることを望んだ明治天皇の勅命により創建。
1875年
(明治8)
鎌倉郵便局開設
・1875年に長谷郵便局として開設し、1888年(明治21)鎌倉郡雪ノ下村に移動し、鎌倉郵便局に改称。
1880年
(明治13)
保養地として最適
・ドイツの医学者ベルツ博士が、「鎌倉は保養地として最適な地である」と紹介。
1884年
(明治17)
理想的な海水浴場
・医師長与専斎が、「鎌倉の浜辺は海水浴場として理想的な海」と紹介。
1889年
(明治22)
横須賀線開通
・横須賀軍港と首都東京を結ぶ国防上の必要から東海道線の支線として、大船−横須賀間が開通し、鎌倉駅が開業。
・大船駅、鎌倉駅、逗子駅、横須賀駅を1日4往復。
1893年
(明治26)
1894年
(明治27)
文学者達の鎌倉訪問
・1893年(明治26)、正岡子規島崎藤村などが鎌倉を訪れました。

・1894年(明治27)、夏目漱石が、円覚寺塔頭「帰源院」に止宿し、円覚寺の老師・釈宗演のもとで参禅。
1894年
(明治27)
鎌倉町誕生
・町制施行で、東鎌倉村と西鎌倉村が合併して、鎌倉郡鎌倉町が誕生。
・鎌倉駅で欧文電報の取り扱いが始められました。
1899年
(明治32)
鎌倉御用邸建築
・明治天皇の皇女のために造られた「鎌倉御用邸」ができました。
1902年
(明治35)
江ノ電が部分開通
・江ノ電が、「江ノ島電気鉄道」として開業(藤沢〜片瀬までの約3.5km)。
・電気鉄道として「全国で6番目」の開通。
1910年
(明治43)
江ノ電が全線開通
・江ノ電が、鎌倉駅(現鎌倉駅前東口、生涯学習センター付近)まで全線開通。
・逗子開成中学の「ボート転覆海難事故」が発生し、生徒らが七里ヶ浜で遭難。

1869年(明治2)創建、祭神は大塔宮護良親王の「鎌倉宮」
 鎌倉宮拝殿_R.JPG

成就院から望む「由比ヶ浜海水浴場」
 由比ヶ浜_R.JPG

円覚寺前踏切を通る「横須賀線」とJR「鎌倉駅舎」
 横須賀線_R.JPG

 鎌倉駅_R.JPG

夏目漱石が止宿した円覚寺塔頭「帰源院山門」と、「夏目漱石句碑」
 帰源院山門_R.JPG

 ・夏目漱石の句碑「佛性は 白き桔梗にこそ あらめ」
 円覚寺帰源院夏目漱石石碑_R.JPG

巨福呂坂洞門に設置されている鎌倉町の町章だった「星月のマーク」
 星月マーク_R.JPG

御成町にある「旧御用邸門」:現御成小学校正門(昭和30年、鉄筋コンクリート製に
 ・門標の校名の文字は、俳人で鎌倉に住んだ高浜虚子が筆をとりました。
 御成小学校正門_R.JPG

七里ヶ浜県道沿いから内陸に入る「江ノ電」
 江ノ電_R.jpg

逗子開成中学生の「ボート転覆海難事故の慰霊碑」(稲村ヶ崎)
 ボート転覆海難事故の慰霊碑_R.JPG

 
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2021年05月13日

鎌倉龍寳寺の今は 2021.5

境内のシャクヤク畑で知られる「龍寳寺」を見てみました。

陽谷山龍寳寺(植木)
・曹洞宗。開山は泰絮宗栄。玉縄北条氏の菩提寺として栄えました。
・1500年代半ば、北条綱成が建立した瑞光院がこの寺の始まり。
 6代玉繩城主北条氏勝によって現在地に移され、創建当時は広大な寺領を有しました。氏勝はのちに徳川家康に仕えました。

・1877年(明治10)、玉繩学校がこの寺に移りました。

・本堂には本尊の宝冠釈迦如来と、文殊・普賢菩薩が祀られ、歴代玉繩城主の位牌が安置されています。
・境内には江戸時代の儒学者新井白石の碑や玉縄ふるさと館、国の重要文化財の旧石井家の住居もあります。

・境内本堂脇には、玉縄城主「北条綱成、氏繁、氏勝の供養塔」が建立されています。

龍寳寺の案内板
 龍寳寺案内板_R.JPG

木造茅葺で元禄年間頃の創建と伝わる「山門」
 龍寳寺山門_R.JPG

玉縄歴代城主北条綱成、北条氏繁、北条氏勝の位牌が安置されている「本堂」
 龍寳寺本堂_R.JPG

玉縄城主北条氏の系図
 小田原北条氏・玉縄北条氏系図.jpg

「玉縄北条氏供養塔」と「説明板」と、脇に立つ「ヤマボウシ」
 玉繩北条氏供養塔_R.JPG

 玉繩北条氏供養塔説明板_R.JPG

境内にあるシャクヤク畑の「シャクヤク」と、「ヤグルマギク」
 シャクヤク1_R.JPG

 シャクヤク2_R.JPG

 龍寳寺シャクヤク3_R.JPG

シャクヤク畑の裏道には、「フランス菊」も見られます
 龍寳寺フランス菊1_R.JPG

 フランス菊2_R.JPG

江戸時代中期に「正徳の治」を行った儒学者の「新井白石之碑」
 新井白石之碑_R.JPG

 
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2021年05月09日

鎌倉の歴史のまとめ−江戸時代

「鎌倉検定公式テキストブック」から、「鎌倉の歴史」についてまとめていきます。

江戸時代
 ・江戸時代には、鎌倉周辺の村々の大半が直轄領や旗本領などにあてがわれました。
 ・また、鎌倉遊覧が盛んになり、物見遊山の地として人々を引き付けてきました。

「江戸時代」の主な出来事
1591年
徳川家康の寺社検地
・徳川家康によって鎌倉の寺社検地が行われ、寺社領や村々の年貢なども決められました。
1616年
丙辰紀行を著す
・「林羅山」が、江戸・京都間を辿った際の紀行文『丙辰紀行』を著し、鎌倉に立ち寄り「源頼朝の墓」を訪れて鴨長明の次の歌を想いました。
「草も木も 靡きし秋の 霜消えて 空しき苔を 払う山風」
1619年
玉繩城廃城
玉縄城が廃城となり、玉縄城下の村々は旗本領や大名領などに転じました。
1636年
英勝寺創建
・水戸の徳川頼房の猶母英勝院尼が、太田道灌屋敷跡に「英勝寺」を建立しました。
1665年
鎌倉最古の庚申塔建立
八雲神社(山ノ内)に「寛文五」(1665年)と銘のある鎌倉最大最古の石造「庚申塔」が建てられました。
1668年
一の鳥居建立
・江戸幕府4代将軍徳川家綱の寄進によって、鶴岡八幡宮寺の石造の「一の鳥居」が建てられました。
1674年
鎌倉日記を著す
徳川光圀は、称名寺→朝夷奈切通→光触寺→英勝寺宿泊、と鎌倉を訪れた時の様子を記した『鎌倉日記』を著しました。
・1685年には、徳川光圀の命により家臣たちが編纂した鎌倉の地誌・案内書『新編鎌倉志』が発行されました。
1711年
植木村が新井白石の知行地
・学者「新井白石」は、植木村を知行地(大名が家臣に与えた土地)としました。
1775年
建長寺三門再建
建長寺三門は、「万拙碩誼(ばんせつせきぎ)和尚」などの努力によって再建されました。
(別名「狸の三門」といわれます。)
1864年
下馬で英国人殺害事件
・外国人排斥の動きがあった幕末の混乱期に、英国軍人のボールドウィン少佐とバード中尉が、騎馬で鎌倉見物に来たところ、下馬橋近くで襲われ暗殺されました。

近世鎌倉の村の基本となった「鎌倉十ヶ村」
・雪ノ下村、小町村、大町村、扇ヶ谷村、
 谷合四ヶ村(十二所村、西御門村、二階堂村、浄明寺村)、山之内村、
 乱橋材木座村、極楽寺村、坂ノ下村、長谷村

徳川光圀が宿泊した英勝寺の「仏殿」(扇ガ谷)
 英勝寺仏殿_R.JPG

八雲神社に建つ鎌倉最大最古の石造庚申塔(山ノ内)
 庚申塔_R.JPG

4代将軍徳川家綱の寄進によって造られた「一の鳥居」(由比ヶ浜)
 一の鳥居_R.JPG

龍寳寺に建てられた「新井白石の碑」(植木)
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「建長寺三門」と、楼上に安置されている「万拙碩誼の位牌」(山ノ内)
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 万拙碩誼の位牌_R.JPG

1779年、頼朝子孫と称する薩摩藩主島津重豪が整備した「源頼朝の墓」(西御門)
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江戸時代に建立または再建された主な「寺社の建物」
 ・鶴岡八幡宮若宮(雪ノ下) 1624 年、徳川秀忠によって再建。
               本宮は1828 年、徳川家斉によって再建。
 ・建長寺仏殿(山ノ内) 芝増上寺より移築。三門、法堂も江戸時代の建造物。
 ・円覚寺山門(山ノ内) 1785年、大用国師によって再建。
 ・海蔵寺庫裡(扇ガ谷) 江戸時代に建立の茅葺きの建造物。
 ・本覚寺仁王門(小町) 江戸時代に建立の小町大路沿いの表門。
 ・光明寺山門(材木座) 1847年再建(鎌倉に現存する最大の山門)。
 ・妙本寺二天門(大町) 1840年の建立。欄間に江戸時代の彩色された龍の彫り物。
 ・妙法寺本堂(大町)  肥後藩主細川家当主が、息女の菩提を弔うため建立。
             法華堂は、水戸家が建立。
 ・成就院(極楽寺)   1333年新田義貞の鎌倉攻めで焼失したが、江戸時代に再建。

 
posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする