
◎江戸時代
・江戸時代には、鎌倉周辺の村々の大半が直轄領や旗本領などにあてがわれました。
・また、鎌倉遊覧が盛んになり、物見遊山の地として人々を引き付けてきました。
<「江戸時代」の主な出来事>
1591年 徳川家康の寺社検地 | ・徳川家康によって鎌倉の寺社検地が行われ、寺社領や村々の年貢なども決められました。 |
1616年 丙辰紀行を著す | ・「林羅山」が、江戸・京都間を辿った際の紀行文『丙辰紀行』を著し、鎌倉に立ち寄り「源頼朝の墓」を訪れて鴨長明の次の歌を想いました。 「草も木も 靡きし秋の 霜消えて 空しき苔を 払う山風」 |
1619年 玉繩城廃城 | ・玉縄城が廃城となり、玉縄城下の村々は旗本領や大名領などに転じました。 |
1636年 英勝寺創建 | ・水戸の徳川頼房の猶母英勝院尼が、太田道灌屋敷跡に「英勝寺」を建立しました。 |
1665年 鎌倉最古の庚申塔建立 | ・八雲神社(山ノ内)に「寛文五」(1665年)と銘のある鎌倉最大最古の石造「庚申塔」が建てられました。 |
1668年 一の鳥居建立 | ・江戸幕府4代将軍徳川家綱の寄進によって、鶴岡八幡宮寺の石造の「一の鳥居」が建てられました。 |
1674年 鎌倉日記を著す | ・徳川光圀は、称名寺→朝夷奈切通→光触寺→英勝寺宿泊、と鎌倉を訪れた時の様子を記した『鎌倉日記』を著しました。 ・1685年には、徳川光圀の命により家臣たちが編纂した鎌倉の地誌・案内書『新編鎌倉志』が発行されました。 |
1711年 植木村が新井白石の知行地 | ・学者「新井白石」は、植木村を知行地(大名が家臣に与えた土地)としました。 |
1775年 建長寺三門再建 | ・建長寺三門は、「万拙碩誼(ばんせつせきぎ)和尚」などの努力によって再建されました。 (別名「狸の三門」といわれます。) |
1864年 下馬で英国人殺害事件 | ・外国人排斥の動きがあった幕末の混乱期に、英国軍人のボールドウィン少佐とバード中尉が、騎馬で鎌倉見物に来たところ、下馬橋近くで襲われ暗殺されました。 |
<近世鎌倉の村の基本となった「鎌倉十ヶ村」>
・雪ノ下村、小町村、大町村、扇ヶ谷村、 谷合四ヶ村(十二所村、西御門村、二階堂村、浄明寺村)、山之内村、 乱橋材木座村、極楽寺村、坂ノ下村、長谷村 |
<徳川光圀が宿泊した英勝寺の「仏殿」(扇ガ谷)>
<八雲神社に建つ鎌倉最大最古の石造庚申塔(山ノ内)>
<4代将軍徳川家綱の寄進によって造られた「一の鳥居」(由比ヶ浜)>
<龍寳寺に建てられた「新井白石の碑」(植木)>
<「建長寺三門」と、楼上に安置されている「万拙碩誼の位牌」(山ノ内)>
<1779年、頼朝子孫と称する薩摩藩主島津重豪が整備した「源頼朝の墓」(西御門)>
<江戸時代に建立または再建された主な「寺社の建物」>
・鶴岡八幡宮若宮(雪ノ下) 1624 年、徳川秀忠によって再建。
本宮は1828 年、徳川家斉によって再建。
・建長寺仏殿(山ノ内) 芝増上寺より移築。三門、法堂も江戸時代の建造物。
・円覚寺山門(山ノ内) 1785年、大用国師によって再建。
・海蔵寺庫裡(扇ガ谷) 江戸時代に建立の茅葺きの建造物。
・本覚寺仁王門(小町) 江戸時代に建立の小町大路沿いの表門。
・光明寺山門(材木座) 1847年再建(鎌倉に現存する最大の山門)。
・妙本寺二天門(大町) 1840年の建立。欄間に江戸時代の彩色された龍の彫り物。
・妙法寺本堂(大町) 肥後藩主細川家当主が、息女の菩提を弔うため建立。
法華堂は、水戸家が建立。
・成就院(極楽寺) 1333年新田義貞の鎌倉攻めで焼失したが、江戸時代に再建。