
◎鶴岡八幡宮(雪ノ下)
・祭神は、応神天皇、比売神、神功皇后。
・1063年、源頼義が由比郷鶴岡に勧請したことに始まります。(由比若宮=元八幡)
・1180年、源頼朝が現在の地に遷座して鶴岡若宮と称しました。
・1191年、焼失後、若宮(下宮)を再建、このとき本宮が創建され、現在のような
上下両宮の姿となりました。
<鶴岡八幡宮の舞殿と本宮>
<鶴岡八幡宮の説明板>

<源氏池の畔に「ノダフジ」の藤棚があります>
<旗上弁財天社の社殿前に、花房の短い「シロカピタン」の藤棚があります>
・朝夷奈切通の太刀洗川に沿った岩肌から湧き出ている水で、「鎌倉五名水」の一つです。 ・1183年、「梶原景時」は、源頼朝の命を受けて、頼朝が幕府を開くにあたり大きな功績のあった「上総介広常」を討ったあと、この水で、太刀の血のりを洗い流したといわれています。 |
・朝夷奈切通は、鎌倉と金沢(横浜市)を結ぶ切通で、六浦口とも呼ばれ、「鎌倉七口」の一つです。 ・鎌倉の東側の守備と考えられ、鎌倉七口のなかで当時の姿を最も今に伝えています。 ・和田義盛の三男で豪傑だった、朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたとの伝承が存在し、朝比奈峠の名の起こりとなっています。 ・1240年、幕府は鎌倉と六浦の間に道を開くことを決め、1241年、3代執権北条泰時が指揮を執り、率先して工事にあたり整備が完成しました。 |
・藤原鎌足の祖父が高倉観音(千葉県)に子授けを祈願し、女の子を授かりました。その子が年頃になっても嫁ぎ先がなかなか決まらなかったため、再び観音様に祈願したところ、常陸国鹿島に嫁ぎ、男の子を授かりました。その子が、後の藤原鎌足と伝えられています。 ・飛鳥時代、藤原鎌足が高倉観音へお礼参拝のため、この地を訪れたとき、持っていた桜の木の「杖」を傍らの土手に挿し、桜の木はそのまま根付きました。その後、土地の人々は鎌足に因んで「鎌足桜」と呼ぶようになったとのことです。 |
・稲荷大神から授けられた鎌を、常にお護りとして身につけていた藤原鎌足は、鹿島神宮参詣の途中で由比の里に宿泊しました。 ・すると、神のお告げがあり、「宿願を成し遂げたので、鎌槍をこの地に埋めなさい」といわれ、所持していた鎌槍を大蔵の松ヶ岡に埋めたということです。 ・この鎌足の「鎌槍」から「鎌倉」という地名がついたといわれています。 ・なお、鎌足が鎌を埋めた伝説の地、大蔵の松ヶ岡は、浄妙寺の鎮守の鎌足稲荷社と鶴岡八幡宮境内の丸山稲荷社の2か所があります。 |
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