
今回は、13人目の最終回で、「二階堂行政」です。
※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。
◎二階堂行政:(?〜?)

・鎌倉に下向し源頼朝の側近となり、公文所の寄人に選ばれました。
・奥州合戦で活躍し、軍奉行となり、その勝利に貢献しました。
・二階堂と言われた「永福寺」の造立に携わりました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・没年不詳。
<二階堂行政の年表>
?年 | ・生年不詳。 ・藤原氏の「藤原南家」の流れを汲む「工藤氏」の家系で、「工藤行遠」の子であったと伝えられている。 | 1180年 | ・下級官人として朝廷に出仕していた。 | 1184年 | ・文官に適した能力があることを源頼朝に見込まれて、頼朝から鎌倉への下向を命じられ、新設された公文所の寄人に選ばれた。 ・公文所寄人には、「足立遠元」や「中原親能」がいた。 | 1189年 | ・「奥州合戦」に従軍し、合戦の経緯をまとめた報告書を作成し、朝廷へと送った。 | 1192年 | ・源頼朝より「永福寺」の造立奉行に任命され、本堂が完成。その仏堂が2階建てであったことから二階堂と呼ばれた。 ・この二階堂付近に屋敷を構えたため、その姓を「工藤」から二階堂に改めて「二階堂行政」と称するようになった。 | 1199年 | ・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。 | ?年 | ・文官として活躍したが、没年は不詳。 ・第3代将軍源実朝の時代には、政所下文における署名からその名が消えている。 ・源実朝が殺害され、その死を悼むために出家した。 ・鎌倉幕府の官僚を代々務めた氏族、「二階堂氏」の始祖といわれている。 |
<二階堂行政の系図>
・父:工藤行遠 ・母:源頼朝の外祖父である熱田大宮司・藤原季範の妹 ・長男:二階堂行村。検非違使の役職は、二階堂行村の系統が代々世襲。 ・次男:二階堂行光。源実朝の時代に、政所別当に就任して手腕を発揮。 ・孫娘:北条義時継室である伊賀の方 |
◎永福寺跡(二階堂)
・源頼朝は、1189年の奥州合戦で平泉の藤原泰衡を討って、奥州を支配下に置いた際に目にした平泉の「中尊寺」の二階大堂(大長寿院)を模して、「永福寺(ようふくじ)」を創建しました。 ・藤原泰衡や源義経をはじめとする、内乱での戦死者の鎮魂と慰霊を目的に建立しました。 ・1191年着工、1192年にはほぼ完成し、本堂の二階堂や阿弥陀堂、薬師堂を中心に、池を配置した浄土庭園を備えた壮大な寺院でした。 ・火災などたび重なる災害で、室町時代の後半に廃寺となりました。 |
<「永福寺旧蹟」の石碑>
現在でも二階堂という地名があるのはこのためです。
1189年に頼朝は奥州征伐から凱旋すると、平泉にあった大長寿院の二階堂に似せて、ここに永福寺を建てました。
この寺の建物はとても大きく立派で、荘厳であり、天下にならぶものがない程であったといいます。
この寺は、1452年以後の関東管領の力が弱くなった頃からまったく廃れてしまいました。
<永福寺跡案内図>
<永福寺跡の「基壇」の様子>
<永福寺の復元図>