2022年10月30日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(二階堂行政)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、13人目の最終回で、「二階堂行政」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

二階堂行政:(?〜?)
二階堂行政_R.jpg・生年不詳。京都の下級貴族出身。「二階堂氏」の始祖。
・鎌倉に下向し源頼朝の側近となり、公文所の寄人に選ばれました。
・奥州合戦で活躍し、軍奉行となり、その勝利に貢献しました。
・二階堂と言われた「永福寺」の造立に携わりました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・没年不詳。

二階堂行政の年表
?年・生年不詳。
・藤原氏の「藤原南家」の流れを汲む「工藤氏」の家系で、「工藤行遠」の子であったと伝えられている。
1180年・下級官人として朝廷に出仕していた。
1184年・文官に適した能力があることを源頼朝に見込まれて、頼朝から鎌倉への下向を命じられ、新設された公文所の寄人に選ばれた。
・公文所寄人には、「足立遠元」や「中原親能」がいた。
1189年・「奥州合戦」に従軍し、合戦の経緯をまとめた報告書を作成し、朝廷へと送った。
1192年・源頼朝より「永福寺」の造立奉行に任命され、本堂が完成。その仏堂が2階建てであったことから二階堂と呼ばれた。
・この二階堂付近に屋敷を構えたため、その姓を「工藤」から二階堂に改めて「二階堂行政」と称するようになった。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
?年・文官として活躍したが、没年は不詳。
・第3代将軍源実朝の時代には、政所下文における署名からその名が消えている。
・源実朝が殺害され、その死を悼むために出家した。
・鎌倉幕府の官僚を代々務めた氏族、「二階堂氏」の始祖といわれている。

二階堂行政の系図
・父:工藤行遠
・母:源頼朝の外祖父である熱田大宮司・藤原季範の妹
・長男:二階堂行村。検非違使の役職は、二階堂行村の系統が代々世襲。
・次男:二階堂行光。源実朝の時代に、政所別当に就任して手腕を発揮。
・孫娘:北条義時継室である伊賀の方

永福寺跡(二階堂)
・源頼朝は、1189年の奥州合戦で平泉の藤原泰衡を討って、奥州を支配下に置いた際に目にした平泉の「中尊寺」の二階大堂(大長寿院)を模して、「永福寺(ようふくじ)」を創建しました。
・藤原泰衡や源義経をはじめとする、内乱での戦死者の鎮魂と慰霊を目的に建立しました。
・1191年着工、1192年にはほぼ完成し、本堂の二階堂や阿弥陀堂、薬師堂を中心に、池を配置した浄土庭園を備えた壮大な寺院でした。
・火災などたび重なる災害で、室町時代の後半に廃寺となりました。

「永福寺旧蹟」の石碑
永福寺跡石碑_R.JPG永福寺のことを当時は二階堂といっていました。
現在でも二階堂という地名があるのはこのためです。
1189年に頼朝は奥州征伐から凱旋すると、平泉にあった大長寿院の二階堂に似せて、ここに永福寺を建てました。
この寺の建物はとても大きく立派で、荘厳であり、天下にならぶものがない程であったといいます。

この寺は、1452年以後の関東管領の力が弱くなった頃からまったく廃れてしまいました。

永福寺跡案内図
 永福寺跡案内図_R.JPG

永福寺跡の「基壇」の様子
 永福寺跡基壇_R.JPG

永福寺の復元図
 永福寺復元図_R.JPG

 
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2022年10月29日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(中原親能)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「中原親能」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

中原親能:(1143年〜1209年)
中原親能_R.jpg・京都の下級貴族である中原広季の実子(又は養子)。
・伊豆国へ配流されていた源頼朝と何らかの形で親交がありました。
・鎌倉に下向し源頼朝の側近となり、公文所の寄人に選ばれました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・朝廷と幕府間の折衝役として活躍したが、京都滞在中に死去。

中原親能の年表
1143年・藤原光能の実子又は中原広季の実子(又は養子)。
・幼少の頃は相模国で育てられたが、成人して京都に戻った。
1180年・伊豆国へ配流されていた源頼朝と何らかの形で親交があった。
・源頼朝の代理として京都に赴き、朝廷と幕府における折衝役であった。
1184年・源頼朝から鎌倉への下向を命じられ、新設された公文所の寄人に選ばれた。
1185年・源平合戦の主要な戦いに従軍し、「壇ノ浦の戦い」では平家軍を追い詰めて滅亡させる活躍をした。
・鎌倉幕府の行政面と軍事面、その両方を補佐することで活躍した。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
1209年・朝廷と幕府間の折衝役として活躍していたが、京都滞在中に67歳で死去。

中原親能の系図
・父:藤原光能又は中原広季。
・妻:源頼朝の次女三幡(乙姫)の乳母であった。
・弟:大江広元(中原広季の養子)。

中原親能の鎌倉の屋敷があったとされる亀ヶ谷
扇ガ谷(亀ヶ谷)には、源頼朝の長女大姫の墳墓堂といわれる「岩船地蔵堂」が建つ
 ・三幡の死後、中原親能は出家し、屋敷があった亀谷堂の傍らに葬ったという。
 岩船地蔵堂_R.JPG

 
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2022年10月28日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(三善康信)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「三善康信」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

三善康信:(1140年〜1221年)
三善康信_R.jpg・朝廷に仕えていた下級貴族の三善家に生まれました。
・伊豆国へ配流されていた源頼朝のもとに、定期的に京都の情勢を伝えていました。
・鎌倉に下向し源頼朝の側近となり、初代問注所執事として活躍。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・問注所執事を辞任後、病気で死去。

三善康信の年表
1140年・朝廷に仕えていた下級貴族の家柄で、三善康光または三善康久の子として生まれた。
・母親が、源頼朝を育てた乳母の妹だった。
1180年・以前より、伊豆国へ配流されていた源頼朝のもとに、月に3回京都の情勢を伝えていた。
・以仁王が平家打倒の令旨を発した裏で、平清盛が源氏を討つように命じていたことを知り、源頼朝に奥州へ逃げるよう伝えた。
1184年・源頼朝から鎌倉への下向を命じられた。
・訴訟を裁許(判決)する「問注所」の初代執事として、裁判制度の整備を推し進めた。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
1221年・「承久の乱」では、病床に伏せていたが、その病を押して軍事会議に参加し、大江広元の即時出兵論を支持した。
・その後、問注所執事を辞任し、病気で死去。

三善康信の系図
・父:三善康光または三善康久
・母:源頼朝の乳母の妹
・嫡男「三善康俊」は、問注所執事の役職を相続した。
・それ以降も問注所執事の役職は、室町時代を通じて、三善家の子孫達が世襲していった。

御成小学校近くの角に建つ「問注所旧蹟」の石碑(御成町)
 DSC03953問注所旧蹟_R.JPG

問注所旧蹟石碑_R.JPG
元暦元年、源頼朝は、大蔵幕府の建物の東西の庇の所を訴訟の受付、裁断する所とする。これを問注所といった。

問注所には人々が群れ集まって、時には喧騒になることもあった。そこで、二代将軍頼家は、正冶元年、問注所を大蔵幕府の外に遷した。

この地が、即ちその問注所があった所である。


 
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