2022年10月27日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(大江広元)

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦
来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「大江広元」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

大江広元:(1148年〜1225年)
大江広元_R.jpg・出自は諸説あり、朝廷に仕える下級貴族で、当初は中原広元といいました。
・鎌倉に下向し源頼朝の側近となり、公文所、政所別当として活躍。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・承久の乱では、主戦論を御家人達に説き、勝利に大きく貢献。
・鎌倉幕府草創期に大きく貢献し、その発展の基礎を築き死去。

大江広元の年表
1148年・京都で誕生。大江家から中原広季のもとで育てられ、中原姓を名乗った。
1184年・源頼朝の伊豆で挙兵後、兄・中原親能の仲介により、源頼朝から招かれて鎌倉へと下向。公文所、別当に就任した。
1185年・公文所が「政所」に改称され、政所別当となる。
・源義経が鎌倉入りを許されないため、腰越から大江広元に対し、兄頼朝へのとりなしを依頼する書状(腰越状)が送られた。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
・和田義盛に強く迫られて、源頼家に梶原景時糾弾の訴状を提出した。
1213年・「和田合戦」では、和田義盛の軍勢により大江広元邸が襲撃された。
・北条義時を陰ながら支えることで、その覇権維持に協力する姿勢を貫いた。
1221年・「承久の乱」では、北条政子と共に主戦論を唱え、幕府軍の勝利に大きく貢献した。
1225年・死去。
・墓は、「西御門の源頼朝墓の東の山上(江戸時代建立)」と「十二所の明王院裏山(鎌倉時代建立)」の2カ所にある。

大江広元の系図
・「大江家」は、もともと平安時代から続く学問の家柄。
・一説には、大江広元は「大江維光」の子として京都で誕生。その後、「中原広季」のもとで育てられた。源頼朝の側近、中原親能の弟にあたる。
・大江広元の四男「大江季光」は名字を「毛利」と改め、安芸国の戦国大名として活躍した「毛利家」を興した。

「大江広元」の2つの墓
 <西御門の三つあるやぐらの中央の五輪塔
 大江広元の墓_R.JPG

 <十二所の明王院裏山にある層塔
 大江広元墓_R.JPG

大江広元の屋敷跡
 ・源頼朝は、大江広元に「相模の国の毛利の荘」を与えました。
 ・そのため、広元の子孫は「毛利氏」を名乗っています。
 大江広元邸址_R.JPG

 <「大江広元邸址」石碑
大江広元邸址石碑_R.JPG大江氏は代々学者の家柄。祖先の大江匡房(まさふさ)は、源義家に兵法を教えた。

広元は頼朝に招かれて鎌倉に来てからは、幕府を創るのに当っての功績は大きかった。そして「相模の国の毛利の荘」をもらって、毛利を名乗った。

しかし皮肉にも、この鎌倉幕府を創った功績者の子孫は、700年後の明治維新の時、天皇制の復活運動に活躍している。

この場所がその毛利の先祖の邸宅の跡である。

 
posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年10月26日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(八田知家)

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦
来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「八田知家」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

八田知家:(1142年?〜1218年?)
八田知家_R.jpg・下野国を本拠とした「宇都宮氏」の出身。源頼朝が伊豆で挙兵後、頼朝の配下となりました。
・源平合戦、奥州合戦で活躍し、源頼朝との篤い信頼関係を構築。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・源頼家の命で、源頼朝の異母弟の阿野全成を謀殺しました。
・没年は不詳。

八田知家の年表
1142年?・下野国を本拠とした「宇都宮氏」2代当主「宇都宮宗綱」:別称[八田宗綱]の四男として誕生という史料がある。
・「尊卑分脈」では、「源義朝」の実子とする伝承を載せている。
・姉妹に源頼朝の乳母のひとりである「寒河尼」がいる。
1180年・源頼朝が伊豆で挙兵し、頼朝の配下となり、各地の合戦で活躍した。
1185年・源範頼の軍勢に付き従い、「壇ノ浦の戦い」で活躍した。
1193年・同じ常陸国の武士の多気義幹(たけよしもと)が謀反を起こそうとしていると鎌倉幕府に報告した。
・多気義幹の所領であった常陸国は没収され、八田知家は、自身の本拠を下野国から常陸国へ移動した。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
1203年・謀反の疑いで宇都宮氏に預けられていた源頼朝の異母弟・阿野全成を、頼家の命で下野国で誅殺した。
1218年?・源義朝の時から源氏に仕えたが、没年は不詳。1218年死去という史料もある。
・墓は、茨城県笠間市の「宍戸清則家」の墓地内に、五輪塔が建てられたと伝えられている。

八田知家の系図
・父は、下野国を本拠とした「宇都宮氏」2代当主「宇都宮宗綱」(うつのみやむねつな:別称[八田宗綱])。
・姉妹に源頼朝の乳母のひとりである寒河尼がいる。

 
posted by トシ999 at 17:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年10月25日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(足立遠元)

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦
来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「足立遠元」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

足立遠元:(1130年代前半〜1207年以降)
足立遠元_R.jpg・出自の詳細は不明だが、源頼朝が伊豆で挙兵後、頼朝の配下となりました。
・奥州合戦で活躍し、源頼朝との篤い信頼関係を構築。
・公文所が設置されると、大江広元のもとで働くようになりました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・没年は不詳。

足立遠元の年表
?年・生まれは不明だが、武蔵国足立郡を本拠とした在地豪族。
・1159年の平治の乱で、源義朝の陣に従い、源義平率いる軍勢として戦った。
1180年・源頼朝が伊豆で挙兵し、頼朝の配下となったが、石橋山の戦いには間に合わなかった。
・下総から武蔵に入った源頼朝を、誰よりも早く出迎え、信頼を獲得していった。
1184年・公文所が設置され、その長官である「別当」には大江広元が任じられ、足立遠元は中原親能や二階堂行政らと共に、同所の「寄人」に選ばれた。
1189年・奥州合戦で活躍し、源頼朝から左衛門尉に任ぜられた。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
・和田義盛ら有力御家人とともに、梶原景時糾弾の訴状を提出した。
?年・没年は不詳。
・吾妻鏡の1207年3月の闘鶏会参加の記事を最後に史料から姿を消している。

足立遠元の系図
・足立氏は、武蔵国足立郡を本拠とした在地豪族。
・足立遠元の父・藤原遠兼が武蔵国足立郡に土着し、遠元から足立を名乗ったとされる。
・「尊卑分脈」によると、安達盛長は、父・藤原遠兼の弟であり、年下の叔父に当たるとされている。


 
posted by トシ999 at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする