2022年10月17日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(比企能員)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「比企能員」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

比企能員:(?〜1203年)
比企能員_R.jpg・源頼朝の乳母である比企尼の養子。
・源頼家が誕生した際には、乳父に抜擢されました。
・源頼朝の死後、頼家と結び、権力を振るいました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・源頼家の後継問題で北条氏と対立し、北条時政に討たれました。

比企能員の年表
?年・生まれは不明だが、源頼朝の乳母である比企尼は、甥の「比企能員」を養子として迎えて、比企氏の家督を継がせた。
1182年・源頼朝の嫡男「源頼家」が誕生した際には、乳父となり、源頼朝の信頼を獲得していった。
1184年・源平合戦では、平氏追討に従軍し活躍した。
1198年・娘の「若狭局」が頼家の側室となり、長男・一幡を産むと外戚として権勢を振った。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
・和田義盛ら有力御家人とともに、梶原景時糾弾の訴状を提出した。
1203年・病床の源頼家の相続を巡って北条時政と対立し、名越の北条邸にて謀殺され、比企一族は滅亡した。(比企氏の乱)
・比企一族の墓は、大町にある「妙本寺」にある。

比企能員の系図
 比企能員の系図.jpg

比企氏の乱(1203年)
・源頼家は病床にあり、様態が悪化する中で、関東28か国の地頭職を長子一幡(6歳)に、関西38か国地頭職を弟千幡(12歳、実朝)に譲る。
・頼家の意向は一幡にすべてを相続させるというものであったが、北条時政らによって阻まれた。
・北条時政は、一幡の外祖父で有力御家人の比企能員の勢力拡大を恐れていた。
・比企能員とその一族は、この相続内容に激怒していた。 
・北条時政は、9月に薬師如来像の供養にかこつけて、比企能員を自邸に招いて殺害した。
・さらに、北条氏の軍勢は、頼家の長子一幡の館にたてこもる比企氏一族・郎従らを襲い、比企氏一族は滅ぼされた。

長興山妙本寺(大町)
 ・1260年創建。開山は日蓮。開基は比企能員の子、比企能本。
 ・山号の「長興」は比企能本の父能員の法号、寺号の「妙本」は母の法号。
 ・1203年、比企一族は北条時政に滅ぼされましたが、京都にいた比企能員の末子能本は
  生き残り、後に比企氏の館の跡地に法華堂を建立しました。
 ・境内には、比企能員夫妻らの墓、源頼家の嫡男の一幡(若狭局の子)の袖塚、竹御所
 (源媄子(よしこ))の墓などがあります。
比企氏の館の跡地に建てられた妙本寺の参道入口
 妙本寺参道入口_R.JPG

比企一族の供養塔(比企能員夫妻らの墓)
 比企一族の墓_R.JPG

一幡の袖塚
 一幡袖塚_R.JPG

竹御所(源媄子(よしこ))の墓
 源媄子の墓_R.JPG

蛇苦止堂
・「比企ヶ谷」の妙本寺にあり、源頼家の妻・若狭局(比企能員の娘)を祀っています。
・1203年、比企氏の乱で比企一族は北条時政に滅ぼされ、若狭局の子で6歳の一幡も殺害され、若狭局は家宝を抱いて井戸に飛び込んだということです。

・1260年、北条政村の娘に突然「讃岐局」を名乗る怨霊が乗り移り、娘は錯乱して大蛇となって苦しんでいるというのです。
・その後、政村は、大蛇となって娘に乗り移った若狭局(=讃岐局)の怨霊を鎮めるため、蛇苦止明神として祀り、若狭局(=讃岐局)を供養し加持祈祷をした結果、政村の娘は癒したといいます。

 蛇苦止堂_R.JPG

 
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2022年10月16日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(和田義盛)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「和田義盛」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

和田義盛:(1147年〜1213年)
和田義盛_R.jpg・三浦大介義明の嫡男杉本義宗の子。
・源平合戦で活躍し、源頼朝との篤い信頼関係を構築。鎌倉幕府初代の侍所別当。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・梶原景時追放、比企氏の乱、畠山重忠の乱などで活躍しました。
・和田合戦で敗れて一族は滅亡しました。

和田義盛の年表
1147年・三浦大介義明の嫡男杉本義宗の子として、相模国三浦郡で生まれる。
1180年・源頼朝の挙兵の際には、房総半島で合流して活躍した。
・源平合戦で活躍し、鎌倉幕府初代の侍所別当となった。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
・三浦義澄ら有力御家人とともに、梶原景時糾弾の訴状を提出した。
1203年・比企氏の乱では、比企氏討伐軍に参加し活躍した。
1205年・畠山重忠の乱では、討伐軍の大将として出陣し活躍した。
1213年・北条義時と対立した和田合戦で敗れ、一族は滅亡した。
・一族の墓は、由比ヶ浜の「和田塚」にある。

和田義盛の家系図
 和田義盛の系図.jpg

和田合戦(1213年)
・「和田義盛」とその一族は、謀反の計画の処理を巡り執権北条義時と激しく対立し、北条氏打倒をめざして挙兵しました。
・三浦義村は、義盛を裏切り、義盛の挙兵を義時に伝えました。
・朝比奈三郎義秀ら義盛の軍勢は、将軍御所などを襲撃し、由比ヶ浜や若宮大路で戦闘が行われました。将軍御所を攻められた源実朝は、頼朝法華堂に避難しました。
・結局、和田義盛らが戦死して、合戦は終結しました。
・北条義時は、政所別当のほか、義盛に代わって侍所別当も兼任することになりました。

和田塚にある「和田義盛一族の墓」(由比ヶ浜)
 和田塚1_R.JPG

 和田塚2_R.JPG

 和田塚3_R.JPG

朝夷奈切通(十二所)
・鎌倉と金沢(横浜市)を結ぶ切通。六浦口とも呼ばれ、鎌倉の東側の守備と考えられ、七口の中で当時の姿を最も今に伝えています。
・1240年、幕府は鎌倉と六浦の間に道を開くことを決め、3代執権北条泰時が指揮を執り、率先して工事にあたりました。
・鎌倉幕府の侍所の初代別当となった和田義盛の三男で豪傑だった、朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたとの伝承が存在し、朝夷奈切通の名の起こりとなっています。

 三郎の滝_R.JPG

 朝夷奈切通_R.JPG

 
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2022年10月14日

鎌倉海蔵寺のシオンを見る 2022.10

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10月の花「シオン」で有名な「海蔵寺」の様子を見てみました。

 ※「シオン(紫苑)」は、花の色の「紫」と庭園を意味する「苑」で、紫色の花が
  寄り添って咲いている様子から名づけられました。
  また、シオンの根は紫色を帯びており、咳止めなどの生薬に用いられました。

シオン(10月上旬〜下旬)
<鎌倉検定公式テキストブックより>
・人の背丈よりも高く、茎が細いので風に弱い植物だが、海蔵寺では1本1本に園芸用の添え木をして育てている。寺社境内の花を楽しめるのも、目に見えないところで丹精しているおかげと気づかされる。
・ほかに浄智寺や東慶寺、英勝寺にも植えられている。

扇谷山海蔵寺(扇ガ谷)
 ・1394年創建。臨済宗。開山は、心昭空外(源翁禅師)。開基は、上杉氏定。
  鎌倉公方足利氏満の命により創建されました。

「山門」と山門から見た「境内の様子」
 海蔵寺_R.JPG

 海蔵寺境内_R.JPG

鐘楼前に咲く「シオン」の様子
 海蔵寺シオン1_R.JPG

 海蔵寺シオン2_R.JPG

海蔵寺シオン3_R.JPG

 海蔵寺シオン4_R.JPG

海蔵寺シオン5_R.JPG

その他、「ホトトギス」が咲き始めています
 海蔵寺ホトトギス_R.JPG

「リンドウ」、「サネカズラの実」なども見られるようです
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 海蔵寺サネカズラの実_R.JPG

 
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