
今回は、「梶原景時」です。
※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。
◎梶原景時(1140年頃〜1200年)

・源平合戦で息子の源太景季と共に活躍し、平家を滅ぼしました。
・幕府創設に功績のあった上総介広常を源頼朝の命令で討ちました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・結城朝光を讒言して弾劾にあい、失脚。有力御家人たちに追われ、駿河で討たれました。
<梶原景時の年表>
1140年頃 | ・梶原景清の次男として、相模国鎌倉郡梶原で生まれる。 | 1180年 | ・石橋山の戦いで敗れた源頼朝を、しとどの窟で見つけたが助け、信任を得た。 | 1183年 | ・源頼朝の命を受けて、頼朝が幕府を開くにあたり大きな功績のあった「上総介広常」を討った。 ・その時の太刀を、朝夷奈切通の太刀洗川に沿った岩肌から湧き出る水で洗ったといわれている。 | 1185年 | ・屋島の戦いを前に源義経と逆櫓論争を繰り広げた。 ・壇ノ浦の戦いの前にも先陣を巡り、源義経と対立。 | 1199年 | ・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。 ・結城朝光の謀反の疑いを源頼家に讒言したが弾劾にあい、鎌倉追放となった。 | 1200年 | ・景時は、三浦義村、和田義盛ら有力御家人たちに追われ、嫡男源太景季をはじめ景時の一族は、駿河国清見関で討たれた。 ・「梶原景時とその一族の墓」は、鎌倉市の深沢小学校の裏手にある。 |
◎朝夷奈切通の太刀洗川に沿った岩肌から湧き出る「梶原太刀洗水」
・梶原景時は、1183年、源頼朝が幕府を開くにあたり大きな功績のあった上総介広常を
頼朝の命令で討ったあと、この水で太刀の血のりを洗い流したといわれています。
・「鎌倉五名水」の一つ。
◎三門梶原施餓鬼会(建長寺:7月15日)
・餓鬼道で苦しむ一切の衆生に食物を与えて供養する法会が施餓鬼会。 ・建長寺では、三門の下に一山の僧侶が集まり行う施餓鬼会に引き続いて、梶原景時の亡霊を弔うために、もう一度施餓鬼会を行うのがしきたりになっています。 ・建長寺の開山大覚禅師がまだこの寺にいたとき、ひとりの武士が馬に乗ってきて、施餓鬼の終わってしまったのを見て大変残念がっていました。 ・そこで大覚禅師はこの武士が帰るのを呼び返して、いま一度施餓鬼をしたところ、その武士は大変喜んで、「自分は梶原景時の霊である。」と言って姿を消したということです。 ・そこで建長寺では、毎年七月、施餓鬼会が終わったあと、梶原施餓鬼を行い、景時の霊を慰めています。 |
◎鎌倉深沢小学校の裏手にある「梶原景時とその一族の墓」
◎鎌倉笛田にある「仏行寺」の山の頂上にある「源太塚」
・梶原源太景季の片腕が埋められていると伝えられています。
◎鎌倉山にある梶原源太景季の妻・信夫の「しのぶ塚」
・しのぶは、源太の死に嘆き悲しみ自害したということで、「源太塚」と向き合って
建っています。