
今回は、「三浦義澄」です。
※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。
◎三浦義澄:(1127年〜1200年)

・源平合戦で活躍し、源頼朝との篤い信頼関係を築きました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・有力御家人とともに、梶原景時追放へ協力しました。
・病気で死去しました。
<三浦義澄の年表>
1127年 | ・三浦大介義明の次男として、相模国三浦郡で生まれる。 | 1164年 | ・兄の杉本義宗が亡くなり、家督を相続した。 | 1180年 | ・源頼朝が挙兵した「石橋山の戦い」に駆けつけたが、酒匂川が暴風雨により増水したため渡れず、間に合わなかった。 ・その後、本拠地「衣笠城」へ引き返したが、平氏方の畠山軍との「衣笠城合戦」が勃発し、三浦大介義明は、三浦義澄らを夜中に城から脱出させ、自身は城に残り討ち死にした。 ・その後、安房国で源頼朝と合流し、「上総氏」や「千葉氏」などに声を掛け、平氏討伐のために尽力した。 | 1185年 | ・「壇ノ浦の戦い」などの合戦に従軍して戦功を立て、「上総介広常」や「千葉常胤」らと共に、源頼朝の重臣となった。 | 1199年 | ・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。 ・千葉常胤ら有力御家人とともに、梶原景時糾弾の訴状を提出した。 | 1200年 | ・病気により死去。墓は、神奈川県横須賀市の「薬王寺跡」にある。 |
◎三浦義澄の家系図

◎随我山来迎寺(材木座)
・1194年、源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うため建立した能蔵寺がはじまりです。
1335年、音阿上人が時宗に改宗し、現在の名前に改名しました。
<境内の「三浦大介義明の墓」(右の五輪塔)と「多々良重春の墓」(左の五輪塔)>
・義明は89歳で戦死しましたが、頼朝は、義明が17回忌まで生きたものとみなすよう
伝えたため、「百六つ義明公」とも呼ばれました。
・多々良重春は、三浦大介義明の孫で、畠山重忠との戦いで戦死しました。
<境内裏手には、百余基の五輪塔の三浦一族「三浦大介公家来の墓」が並んでいます>