2022年10月29日

鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(中原親能)

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来月の鎌倉検定に向けて、今年のトピックスとして「鎌倉殿の13人」をテーマに取り上げていきます。

今回は、「中原親能」です。
 ※全体像は、「鎌倉検定対策−鎌倉殿の13人(総論)」を参照。

中原親能:(1143年〜1209年)
中原親能_R.jpg・京都の下級貴族である中原広季の実子(又は養子)。
・伊豆国へ配流されていた源頼朝と何らかの形で親交がありました。
・鎌倉に下向し源頼朝の側近となり、公文所の寄人に選ばれました。
・第2代将軍源頼家の時に、13人の合議制の一員となりました。
・朝廷と幕府間の折衝役として活躍したが、京都滞在中に死去。

中原親能の年表
1143年・藤原光能の実子又は中原広季の実子(又は養子)。
・幼少の頃は相模国で育てられたが、成人して京都に戻った。
1180年・伊豆国へ配流されていた源頼朝と何らかの形で親交があった。
・源頼朝の代理として京都に赴き、朝廷と幕府における折衝役であった。
1184年・源頼朝から鎌倉への下向を命じられ、新設された公文所の寄人に選ばれた。
1185年・源平合戦の主要な戦いに従軍し、「壇ノ浦の戦い」では平家軍を追い詰めて滅亡させる活躍をした。
・鎌倉幕府の行政面と軍事面、その両方を補佐することで活躍した。
1199年・源頼朝が急死すると、跡を継いだ源頼家を補佐するための13人の合議制の一翼を担った。
1209年・朝廷と幕府間の折衝役として活躍していたが、京都滞在中に67歳で死去。

中原親能の系図
・父:藤原光能又は中原広季。
・妻:源頼朝の次女三幡(乙姫)の乳母であった。
・弟:大江広元(中原広季の養子)。

中原親能の鎌倉の屋敷があったとされる亀ヶ谷
扇ガ谷(亀ヶ谷)には、源頼朝の長女大姫の墳墓堂といわれる「岩船地蔵堂」が建つ
 ・三幡の死後、中原親能は出家し、屋敷があった亀谷堂の傍らに葬ったという。
 岩船地蔵堂_R.JPG

 
posted by トシ999 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・旧跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする