2017年01月29日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1185年10月24日)を読む(8)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

J文治元年(1185)10月24日
 源頼朝の臨席のもと、勝長寿院(南御堂)の開堂供養が行われる。勝長寿院は、かつて平治の乱で敗死した父義朝の菩提を弔うために、頼朝が建立したもの。
 同寺には、京都の獄門付近で探し出され、去る8月、文覚上人の弟子たちによって鎌倉へ運ばれてきた義朝の首が埋葬される。

勝長寿院跡(雪ノ下)
「勝長寿院旧蹟」の石碑
勝長寿院旧蹟.JPG勝長寿院」は、源頼朝が鎌倉で創建した「三大寺院」の一つです。

奈良から仏師「成朝」を招いて、黄金の阿弥陀像を造らせて安置したと伝えられています。

室町期に衰退し、廃寺になりました。

 ※「三大寺院」のあと二つは、「鶴岡八幡宮と永福寺」です。

「源義朝と鎌田政長(政家)の墓」と「供養塔再建由来の碑」
 ここには、「源義朝と鎌田政長(政家)の墓」と「供養塔再建由来の碑」が建っています。
 鎌田政長(政家)は、最後まで義朝に仕えた家臣です。
義朝の墓.JPG 供養塔再建由来の碑.JPG

文覚上人屋敷迹
文覚上人屋敷迹 .JPG雪ノ下の「田楽辻子の道」の入口、滑川に架かる「大御堂橋」の傍らに、文覚が住んだといわれる「文覚上人屋敷迹」の石碑があります。

ここを流れる滑川が古くは「坐禅川」といわれたのは、文覚上人が近くに屋敷を構えていたことにちなんでということです。

文覚上人屋敷迹石碑.JPG文覚はもともと遠藤盛遠(えんどうもりとお)という武士だったが、渡辺(源)渡の妻袈裟御前に懸想し、誤って殺してしまい、その女性の供養のため出家し、僧侶になったという。

また、京都神護寺再興のために後白河法皇に勧進したものの、怒りを買い伊豆に流され、そこで源頼朝と出会い親交を深め、平家討伐の挙兵を勧めたといわれています。

1181年、「源頼朝の祈願所」として創建された「補陀洛寺(材木座)」の開山として伝えられています。

「成就院」にある文覚上人の「荒行像」
 文覚上人荒行像.JPG

「勝長寿院跡」と「文覚上人屋敷迹」の場所
勝長寿院跡と文覚上人屋敷跡地図.jpg

 
posted by トシ999 at 12:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/446087512

この記事へのトラックバック