2017年02月26日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1199年正月13日)を読む(16)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(26)正治元年(1199)正月13日
 征夷大将軍源頼朝が死去する(53歳)。
 前年11月、稲毛重成が亡妻の冥福を祈るために新造した相模川の橋供養に参列しているが、その帰路に落馬したこと、また「飲水重病(重い糖尿病)」などが死因としてあげられている。
 のち2月6日には宣旨が到着し、嫡男頼家が頼朝の遺跡を相続する。ただし、頼家が正式に征夷大将軍に任じられるのは、建仁2年(1202)7月のことになる。

源頼朝(1147〜1199)
「頼朝の墓」の場所
 頼朝の墓地図.jpg

「頼朝の墓」の案内板
頼朝の墓案内板.JPG

「頼朝の墓」へ通じる53段(53歳で死去)の階段
 頼朝の墓階段.JPG

源頼朝の墓(西御門)
源頼朝の墓.JPG同じ石を何層にも重ね、その上に相輪を立てた形をした「層塔」です。

1779年、江戸時代に頼朝の子孫と称した薩摩藩主・島津重豪(しげひで)が建てたもの。
この辺りが法華堂跡とされ、もとは頼朝の持仏堂で、1189年に聖観音を本尊として建てられました。

墓石に付いている島津家の家紋「丸に十の字」
 島津家家紋.JPG

「法華堂跡の石碑」と「白旗神社」
法華堂跡石碑と白旗神社.JPG江戸時代、頼朝の墓の下に堂があり、これを「法華堂」と称しました。

明治時代になり廃され、1872年、「白旗神社」となりました。

源頼朝の落馬の地
頼朝落馬の地地図.JPG頼朝の死には、「落馬による怪我」、「病気」、「暗殺」などの諸説がありますが、死因は定かではありません。

ここでは、「落馬の地」といわれている鎌倉市の隣の「藤沢市辻堂」の場所です。

頼朝落馬の地.JPG源頼朝は、1198年、稲毛重成が亡き妻の冥福を祈るために行った「相模川の橋供養」に参列し、その帰路で落馬して、翌年命を落とすこととなります。

落馬は、もともと病気であったから、弟源義経や叔父源行家らの亡霊に遭遇したから落馬したとも伝えられています。

頼朝落馬の地案内板.JPG頼朝がわざわざ稲毛重成の妻の供養に出席したのは、その妻が北条政子の妹だったからではないでしょうか。

 
posted by トシ999 at 16:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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