(33) 建仁3年(1203)9月2日 北条時政が薬師如来像の供養にかこつけ、比企能員を自邸に招いて殺害し、さらに北条政子の命を受けた軍勢が、頼家の長子一幡の館に立てこもる比企氏一族・郎従らを襲う(比企氏の乱)。 前月27日の譲与内容に激怒していた能員とその一族は、これによって滅亡し、かろうじて脱出した一幡も、二ヶ月後には殺害されている。 |
<源頼家と比企能員の関係図>

※阿野全成(1153〜1203年)
源義朝の子。幼名今若。母は常盤御前で、義経の同母兄。
醍醐寺で成長するが、異母兄頼朝の挙兵を聞き、下総国で対面した。
<比企氏の乱へ至る伏線>
1203年 5月 | ・源頼家が、頼朝の弟阿野全成を謀反の疑いで捕え、6月に殺害。 ・阿野全成の妻阿波局は、頼家の弟千幡(実朝)の乳母で、北条政子の妹。 ・北条時政が千幡(実朝)を擁立して、頼家と対立していた。 |
1203年 8月 | ・源頼家は病床にあり、様態が悪化する中で、関東28か国の地頭職を長子一幡(6歳)に、関西38か国地頭職を弟千幡(12歳、実朝)に譲る。 ・頼家の意向は一幡にすべてを相続させるというものであったが、北条時政らによって阻まれた。 ・北条時政は、一幡の外祖父で有力御家人の比企能員の勢力拡大を恐れていた。 ・比企能員とその一族は、この相続内容に激怒していた。 |
◎長興山妙本寺
このお寺については「鎌倉大町のお寺を見る(長興山)」を参照。
<シダレザクラ咲く4月の本堂の景色ももうすぐ見られます>
<カイドウ咲く4月の祖師堂の景色ももうすぐ見られます>
<比企一族の供養塔(比企能員夫妻らの墓)>
妙本寺の山号の「長興」は比企能本の父能員の法号、寺号の「妙本」は母の法号。
<一幡の袖塚(焼け跡から見つかった一幡の袖を祀っている)>
頼家・若狭局の子で、比企氏の乱で6歳で落命した一幡を祀っています。
<若狭局の蛇苦止堂(じゃくしどう)>
その後、政村は、若狭局(=讃岐局)の怨霊を鎮めるため、蛇苦止明神として祀り、讃岐局を供養し加持祈祷をした結果、政村の娘は癒したといいます。
この井戸は、「蛇苦止の井」または「蛇形の井」と呼ばれているということです。