2017年03月12日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1205年6月22日)を読む(21)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(36)元久2年(1205)6月22日
 武蔵野国の有力御家人畠山重忠の嫡子重保が、由比ヶ浜付近で北条時政の命を受けた三浦義村に討たれ、ついで重忠も武蔵国二俣川(横浜市旭区)で幕府軍と戦い、敗死する。
 事件の発端は、時政の後妻牧ノ方の女婿平賀朝雅が、口論相手の重保に謀叛の疑いありとして、牧ノ方に讒言したことにあるという。

畠山重忠(1164〜1205年)
 ・源頼朝が鎌倉入りの際に従った御家人で、怪力の持ち主という伝説があります。
  平氏との一谷の戦で、愛馬を気づかい自ら背負ってヒヨドリ越を降りたということです。

 ・また、音楽的にもすぐれた才能を示しています。
  1186年、静御前が源頼朝に所望され、鶴岡八幡宮若宮回廊で舞を舞った時、畠山重忠が銅拍子を担当しています。
 →「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1186年4月8日)を読む(9)」を参照。

<永福寺の「畠山重忠の石」>
畠山石.JPG1192年の永福寺建立の時、一人で堂前の池の中に巨石を立てたという強力ぶりが伝えられています。

一人で担いで池の中に据えたといわれる大きな「畠山石」が、永福寺跡の地のはずれにあります。

畠山重忠邸址の石碑
畠山重忠邸址.JPG鶴岡八幡宮の東側にある鳥居の出口のこの辺りは、「畠山重忠の屋敷」があったとされる場所です。

畠山重保(?〜1205年)
 畠山重忠の息子。通称は六郎。
 謀反の疑いをかけられ、由比ヶ浜に呼び出された所を、北条時政の意を受けた三浦義村によって討たれました。
 
<「畠山重保邸址の石碑」と「畠山重保の墓」(若宮大路)>
畠山重保邸址.JPG畠山重保の屋敷」は、鶴岡八幡宮一ノ鳥居の近くにあったと伝えられています。

畠山重保の墓.JPG大型の宝篋印塔の「畠山重保の墓」が若宮大路に建てられています。
畠山重忠・重保親子は、北条時政の策略で、謀反の疑いにより北条軍に討たれてしまいました。
この後、時政が源実朝を殺害し平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、「北条政子・義時」らに阻止され義時が執権に就任し、時政は失脚しました。

佐助稲荷神社
佐助稲荷神社石塔.JPG伊豆蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、挙兵をすすめる「かくれ里の稲荷」という神霊の託宣に従って挙兵したといわれています。

そのことから、畠山重忠に命じて、その里で見つけた祠に社を建てさせたといいます。

佐助稲荷神社本殿
 佐助稲荷本殿.JPG

案内板
佐助稲荷案内板.JPG

 
posted by トシ999 at 15:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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