2017年03月24日

鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1213年5月2日)を読む(23)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

(42)健保元年(1213)5月2日
 和田義盛とその一族が、とくに二月以来、険悪な関係にあった北条氏打倒をめざして挙兵する(和田合戦)。
 義盛の軍勢は将軍御所・北条義時邸・大江広元邸を襲撃するが、従兄弟の三浦義村の裏切りもあって、義盛は翌日、敗死する。
 合戦後、北条義時は従来の政所別当のほか、義盛にかわって侍所別当も兼任することになる。

和田義盛(1147〜1213年)
 鎌倉幕府初代の侍所別当。
 三浦氏の一族で、平家追討や奥州合戦に参加し、源頼朝に信頼された。 
 
和田義盛と三浦義村の関係図
 和田義盛と三浦義村関係図.jpg

「和田合戦」に至る伏線
・信濃国住人「泉親衡」が故源頼家の遺児を将軍とし、北条義時を討つという謀叛の計画が露見し、多数の計画加担者の中に和田義盛の子や甥も含まれ、義盛の子の義直・義重、甥の胤長が逮捕された。
・義盛は将軍に一族の赦免を嘆願。義盛の多年の勲功に免じて子の義直・義重は赦免されたが、甥の胤長は事件の張本人として許されず、和田一族の面前で縄で縛られ流罪となってしまった。
・胤長の屋敷は没収されたが、慣例により屋敷は一族に下げ渡され、義盛は屋敷に代官を置いた。
・ところが、突然北条義時は旧胤長屋敷を泉親衡の乱平定に功績のあった者に与えると決め、義盛の代官を追い出してしまった。
・このような度重なる義時の挑発に、義盛は挙兵を決断した。

和田合戦
 ・和田義盛は北条義時打倒の兵を挙げたが、三浦義村は義盛を裏切り、義盛の挙兵を義時に伝えた。
 ※三浦義村の裏切りで、義村は他の御家人から、「三浦の犬は友を食らうぞ」と批判されたといいます。

 ・義盛の軍勢は三手に分かれ、将軍御所・北条義時邸・大江広元邸を襲撃した。
 ・義盛の三男朝比奈三郎義秀の軍勢が御所に突入して放火したため、御所は焼失した。
 ・将軍御所を攻められた源実朝は頼朝法華堂に避難している。
 ・和田軍は大いに奮戦したが、次第に北条軍に押され由比ヶ浜に退いた。
 ・翌日、由比ヶ浜や若宮大路で戦闘が行われ、義盛らが戦死して、合戦は終結した。

和田塚
 江ノ電和田塚駅の南側に「和田一族の墓」があり、「和田塚」と呼ばれている。
 和田塚.JPG

 和田義盛一族の墓.JPG

「和田塚」の場所
 和田塚の地図.jpg
 
posted by トシ999 at 14:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/448030829

この記事へのトラックバック