2017年04月08日

鎌倉検定−天変地異起こる(1221年5月19日)を読む(2)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

C承久3年(1221)5月19日
 去る15日、後鳥羽上皇が執権北条義時追討の命令を諸国の武士に下したことなどを伝える、上皇側・幕府側双方の急使が京都からあいついで到着した。
 これに対し、尼将軍と言われた北条政子は御家人を招集し、頼朝以来の御恩などを訓示して結束を固めた。
 翌6月には幕府軍18万騎が東海・東山・北陸の参道から京へ攻めのぼり、戦いは幕府方の圧倒的勝利をもって終わることになる(承久の乱)。

承久の乱(1221年)
 「北条政子・義時」VS「後鳥羽上皇」の戦いとも言える戦いで、政子の御家人への訓示で幕府は結束し勝利を収めました。

北条義時(1163〜1224年)
 鎌倉幕府2代執権。北条時政の次男。北条政子の弟。
 「和田合戦」(1213年)では和田義盛一族を滅ぼし、政所と侍所の両別当(長官)を兼ねて地位を固めました。
 「承久の乱」(1221年)では後鳥羽上皇らを流罪にし、京都に六波羅探題を設置しました。
 これにより、鎌倉幕府を安定させ、執権政治の土台を固めました。

北条政子(1157〜1225年)
 北条時政の長女、源頼朝の妻。頼朝の死後出家したが、源頼家、源実朝の後見として政務を担いました。北条執権政治の確立にも尽くし、「尼将軍」と称されました。
 勝長寿院に葬られたが、「壽福寺」に墓と伝えられる五輪塔が、また「安養院」にも供養塔があります。
 ※勝長寿院は、源頼朝が鎌倉で創建した「三大寺院」の一つです。
 勝長寿院については、「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1185年10月24日)を読む(8)」を参照。

壽福寺にある「北条政子の墓(供養塔)」と伝わる五輪塔
 北条政子墓.JPG

※壽福寺については、「鎌倉扇ヶ谷のお寺を見る(亀谷山)」を参照。

安養院にある「北条政子の墓(供養塔)」と伝わる宝篋印塔
 北条政子の墓.JPG

※安養院については、「鎌倉大町のお寺を見る(衹園山)」を参照。

 
posted by トシ999 at 16:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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