2017年05月14日

鎌倉検定−天変地異起こる(1247年6月5日)を読む(12)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「宝治合戦」です。
(26)宝治元年(1247)6月5日
 北条時頼が三浦泰村を滅ぼす(宝治合戦)。
 執権北条時頼と三浦氏の対立により、鎌倉には軍勢が集結して緊張が高まる。時頼は、外祖父の安達景盛とともに、三浦氏を攻撃。
 三浦泰村は、源頼朝の法華堂に籠り、弟の光村は永福寺に陣を置いて防戦する。敗北した泰村、光村、毛利季光(泰村の妹婿)以下五百人は、源頼朝の法華堂で自害する。
 6月7日には、上総国で千葉秀胤が滅ぼされる。
 

三浦泰村(?〜1247年)
 相模国の三浦半島を拠点とする有力御家人。
 1246年9月に、北条時頼から北条重時の鎌倉招請を打診されて拒否するなど、時頼と対立関係が生じていました。
西御門にある法華堂跡の平場の左奥に、「三浦一族の墓」のやぐらがあります
 三浦一族の墓.JPG
 ※法華堂跡については、「鎌倉検定−天変地異起こる(1231年1月14日)を読む(5)」を参照。

安達景盛(?〜1248年)
 頼朝の側近として活躍した「安達盛長」の子。
 北条時頼の母「松下禅尼」は、景盛の娘。
 「安達盛長」は、源頼朝が伊豆蛭ヶ小島に流されていた頃からその側近として仕えた御家人で頼朝から信頼を受けていました。

甘縄神明神社前にある「安達盛長邸址」の石碑
 安達盛長邸址の石碑.JPG

安達一族の系図
 安達一族系図.jpg

毛利季光(1202〜1247)
 大江広元の子。「宝治合戦」では北条時頼方に参戦しようとしたが、三浦泰村の妹である妻に説得され、泰村方として参戦しました。
 戦国大名・毛利氏の祖にあたります。

西御門にある「源頼朝の墓」の東側、山の中腹に、「毛利季光の墓」(左側)が、「大江広元の墓」(中央)とともにあります
 左:毛利季光の墓 中央:大江広元の墓 右:島津忠久の墓.JPG

 毛利季光の墓.JPG

 
posted by トシ999 at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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