2017年07月19日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1305年4月23日)を読む(15)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「嘉元の乱」です。
(23)嘉元3年(1305)4月23日
 連署北条時村が殺害される(嘉元の乱)。事件の張本人は北条時宗の弟宗頼の子宗方である。
 宗方は伯父時宗の猶子となり、侍所所司と内管領を兼ねていた。宗方は、貞時の命令と称して御家人らを動員して時村を討ったのである。
 貞時はこれを虚言として、逆に討手となった御家人ら12人が斬首となり、宗方も討たれた。
 宗方は、自分よりもさきに従兄弟の師時が第10代執権に就任したことに不満を持ち、師時や長老時村を殺害しようとした事件だといわれる。

北条時村(1242〜1305年)
 第7代執権北条政村の嫡男。
 幕府の要職を歴任し、甥の北条師時が10代執権になると連署に任じられて、師時を補佐する後見的立場となりました。

 北条貞時が第9代執権就任時に、六波羅北方であった長老時村は、急ぎ鎌倉へ向かったが三河で追い返されたという経緯を持つ人物です。
 →「鎌倉検定−蒙古の襲来(1284年7月7日)を読む(9)」を参照。

北条宗方(1278〜1305年)
 北条時宗の弟北条宗頼の子。
 六波羅探題北方、評定衆、引付頭人、さらには内管領など要職に就任していたが、執権職への野心を抱いていたのでしょうか?詳細は不明です。

北条師時(1275〜1311年)
 北条時宗の弟北条宗政の子。
 1301年、北条貞時の出家に伴い第10代執権に就任。連署は北条時村
 貞時の嫡男である「北条高時」が成人するまでの中継ぎ役として期待されたが、実権は貞時に握られていました。

 ※「浄智寺」は、1281年、北条宗政の菩提を弔うため、名目上はその子の北条師時らが創建となっています。
  →「北鎌倉のお寺を見る(金宝山)」を参照。

アジサイの季節の浄智寺総門前
 浄智寺総門前.JPG

北条時村・宗方・師時の系図
 北条時村・宗方・師時の系図.jpg

 
posted by トシ999 at 13:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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