2017年07月21日

鎌倉検定−蒙古の襲来(1316年7月10日)を読む(17)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回は、「北条高時の第14代執権就任」です。
(27)正和5年(1316)7月10日
 北条高時が執権となる。
 応長元年(1311)北条貞時が死去した時、嫡子の高時はまだ9歳であった。貞時は、得宗高時の後見を、内管領長崎円喜と安達時顕(高時の舅)に託した。その後、執権は北条一族の大佛宗宣、煕時、基時と推移したが、これはあくまで高時の成長を待っての暫定的な措置であった。
 高時が14歳となったこの年、正式に執権として就任したのであるが、政務の実権は、長崎氏らが掌握することになる。

北条高時(1303〜1333年)
 第14代執権。9代執権北条貞時の子。
 父と同じ14歳で執権となったが、実権は長崎円喜、高資父子、安達時顕が握っていた。
 そのため、闘犬、田楽、飲酒などにふけり、政治をおろそかにしました。

宝戒寺 徳崇大権現堂
 北条高時は、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、宝戒寺本堂右前にある徳崇大権現堂に祀られています。
 徳崇大権現.JPG

長崎円喜(?〜1333年)
 北条高時の執権就任と同時に内管領となりました。
 子高資(たかすけ)とともに幕府の実権を掌握、鎌倉幕府滅亡時に自刃しました。

文保元年(1317年)の「文保の和談」
 後嵯峨天皇以降、朝廷は皇位をめぐり、両統迭立による「持明院統」と「大覚寺統」の対立抗争が長期化していました。
 幕府は、「持明院統」と「大覚寺統」に対して、仲裁案を提案し、今後の皇太子の順序を示唆するも不調に終わっています。(この時は、花園天皇の時代)

皇室関係図(後醍醐天皇まで)
 皇室関係図.jpg

北条師時から高時までの執権の推移
 北条師時から高時の系図.jpg
 
posted by トシ999 at 11:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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