2017年08月06日

鎌倉検定−鎌倉公方の誕生(1334年11月15日)を読む(1)

 鎌倉検定合格を目指して、「読んで分かる中世鎌倉年表」(→ココ参照)を読みながら、今の鎌倉を見てみましょう。

 今回から、「第二部 鎌倉公方の盛衰  第一章 鎌倉公方の誕生」を読みます。

 まずは、「護良親王の配流」です。
@建武元年(1334)11月15日
 護良親王が後醍醐天皇の命で鎌倉に流される。
 親王は鎌倉幕府の討幕に功績があったが、足利氏との抗争に敗れてその政治生命を失った。配流の理由は、謀叛を企てたというものであった。
 鎌倉では足利直義の監視下に置かれ、二階堂薬師堂谷(鎌倉宮付近)の東光寺に禁固の身となったと伝えられる。

護良親王(もりよし(もりなが)しんのう)(1308〜1335年)
 後醍醐天皇の皇子。11歳で比叡山延暦寺の大塔に入室したことから「大塔宮」と称されました。
 20歳で天台座主になりましたが、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕のための挙兵に応じて、還俗して護良と名乗り、倒幕で功績を挙げました。

 倒幕後、護良親王は、足利尊氏が武士を従えて反旗を翻そうとしていることを見抜き、尊氏を打倒しようとしました。
 尊氏は、後醍醐天皇に護良親王が謀反を起こそうとしていると伝わるように画策したため、護良親王は捕えられ、東光寺の土牢に幽閉されました。

東光寺とは
 護良親王が幽閉されていた終焉の地が、「東光寺」ということです。
 その跡に親王の零を弔うため、明治になって「鎌倉宮」が建てられたということです。

鎌倉宮
案内板
 1869年(明治2)創建。祭神は、「大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)」。
 護良親王の遺志を後世に伝えることを望んだ明治天皇の勅命により、創建されました。
 鎌倉宮の名も天皇自らつけられました。
鎌倉宮案内板.JPG

鳥居と拝殿
 鎌倉宮.JPG

 鎌倉宮拝殿.JPG

鎌倉宮境内奥の「護良親王の土牢」
 鎌倉宮の境内図(→「ココ」)で、Eが土牢です。
土牢案内板.JPG

 護良親王土牢.JPG

 
posted by トシ999 at 11:39| Comment(0) | 鎌倉検定 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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