
今回は「御家人・比企能員」です。
◎比企能員(?〜1203年)
・源頼朝の乳母である比企尼の養子。
・平氏追討に加わり、頼朝の信任を得ました。頼朝の死後、2代将軍頼家と結び、権力
を振るいました。
・北条氏討伐を企てたが政子に知られ、名越の北条邸にて謀殺されました。後に一族も
北条氏によって滅ばされました。
<比企氏と源頼家の関係図>

<1203年の「比企氏の乱」>
・頼朝の死後、頼家が2代将軍になると、頼家の義父比企能員の進出を阻止しようと、
北条時政、政子、義時は比企氏への警戒を強めました。
・1203年、頼家の様態が悪化する中、北条時政らの策略で相続について長子一幡と頼家
の弟千幡(実朝)が分かち合う形となり、いよいよ北条氏と頼家・比企氏との対立が
現実のものとなり、争いが勃発しました。
※「比企氏の乱」については、「鎌倉検定−頼朝の鎌倉入り(1203年9月2日)を読む(20)」を参照。
<比企一族の邸宅跡の「長興山妙本寺」(大町)>
・1260年創建。開山は日蓮。開基は、比企能員の子・能本。
・比企一族の供養塔(比企能員夫妻らの墓)
妙本寺の山号の「長興」は比企能本の父能員の法号、寺号の「妙本」は母の法号。
※このお寺については、「鎌倉大町のお寺を見る(長興山)」を参照。
<常栄寺と同様に「ぼたもち寺」と呼ばれる「龍口山法源寺」(腰越)>
・龍ノ口の刑場に引かれて行く日蓮に比企能員夫人の妹・桟敷尼がぼた餅を捧げた逸話
があります。桟敷尼の実家の菩提寺であったことが「ぼたもち寺」の由来。
・龍口寺輪番八ヵ寺の一つ。