
今回は「赤橋(北条)守時」です。
◎赤橋(北条)守時(1295〜1333年)
・北条氏最後の16代執権。第6代執権・北条長時の曽孫にあたります。
父は、赤橋流の北条久時。妹は、足利尊氏の正室です。
<赤橋(北条)守時の系図>

<朱塗りの板橋であったので「赤橋」と呼ばれていた「鶴岡八幡宮の太鼓橋」>
・赤橋流北条氏は、屋敷をこの付近に構えたことから「赤橋」を名乗りました。
<付近のやぐらの被葬者に対する供養塔といわれる「泣塔」>
・1333年の鎌倉攻め際、新田軍と赤橋守時率いる北条勢との間で激戦が繰り広げられた
「洲崎古戦場」の石碑の近くで、深沢多目的スポーツ広場(旧国鉄工場跡地)に建つ
宝筺印塔。
・赤橋守時は、新田軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、洲崎で自刃しました。
・昔、一時、手広の青蓮寺に移されたが、毎晩、元の場所を恋しがるようにすすり泣く
声がするため戻され、その後、泣き声は止まったといいます。
・塔の銘には、「文和五年(1356年)」とあります。保存状態がよく、年代が明らかで
形が美しいことから、1933年(昭和8)に、国の重要美術品に指定されました。
また、1971年(昭和46)には、市指定有形文化財に指定されました。
<湘南モノレールの湘南深沢駅近くにある「洲崎古戦場の石碑」>
元弘三年(1333)5月、新田義貞の鎌倉攻めの折、武将の堀口三郎貞満と大島讃岐守守之が洲崎口より攻め込んできました。
鎌倉方は、赤橋相模守守時を大将として迎え撃ちましたが、激戦は60回以上に及び、遂に敗れ、守時はじめ90人以上が自刃したといいます。
この辺りが、その古戦場の跡です。
<「泣塔」と「洲崎古戦場の石碑」の場所>

<浄光明寺敷地絵図に登場する「赤橋守時」の屋敷区画>
・この絵図は、鎌倉幕府滅亡の後に寺の関係者が寺領を保護してもらうため、足利直義
の執事上杉重能に差し出し、その許可を得たもの。
(鎌倉時代の「鎌倉」地区を示す唯一の絵図(国重文))
・絵図の真ん中右側には、「北条(赤橋)守時」の屋敷区画があります。
すぐ東側には「御中跡」とあり、北条高時の屋敷でした。
※「浄光明寺敷地絵図」は「ココ」を参照。